揖斐川のダム計画とは? わかりやすく解説

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揖斐川のダム計画

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 05:39 UTC 版)

徳山ダム」の記事における「揖斐川のダム計画」の解説

戦後1949年昭和24年)に「河川改訂改修計画」が経済安定本部より発案され、水害による経済復興抑制阻止するため利根川淀川北上川など全国10水系多目的ダムによる総合的洪水調節計画施行された。木曽川水系においても木曽川水系流域計画施行され発電用ダムとして計画されていた丸山ダム木曽川)が多目的ダム変更となった揖斐川についても水害常襲地帯である大垣市より下流輪中における治水望まれ1951年昭和26年)から岐阜県により補助多目的ダム調査が行われていたが「改訂改修計画」を受け、1953年昭和28年)から建設省中部地方建設局(現:国土交通省中部地方整備局)へ事業移管された。当初現在のダム地点から下流キロメートル地点東杉原ダムというダム計画されていた。規模は高さ72m、総貯水容量は約1億8,400m3であったが、その後さらに下流藤橋村東横山地点計画移された。これが現在の横山ダムであり、1964年昭和39年)に完成した。 ところが横山ダム工事中1959年昭和34年9月伊勢湾台風中部地方致命的な被害もたらした。4,500人以上の死者を出す戦後最悪風水害となり、揖斐川流域でも養老郡多芸輪中中心に5,900戸が浸水29人が死亡したこのため横山ダム洪水調節流量改訂されたほか、揖斐川上流さらなる洪水調節ダムの建設計画された。 他方戦後深刻な電力不足を早急に解決することも治水同様に求められていた。1950年昭和25年)の国土総合開発法に基づき木曽川水系では木曽特定地域総合開発計画定められ治水灌漑水力発電目的とした総合開発計画された。1954年昭和29年)に電源開発促進法施行され電源開発株式会社発足只見川天竜川はじめとする日本各地河川において水力発電所建設推進していたが、急流である揖斐川水力発電適地として着目され、横山ダム建設着手され1957年昭和32年)、揖斐川流域電源開発促進法に基づく水力開発事業調査区域に指定上流徳山村地点において水力発電ダムの建設計画した。 以上が徳山ダム原点である。最初建設省による多目的ダム次いで電力会社発電用ダムとして計画されたが、伊勢湾台風後は治水万全なものとするため、1966年昭和41年)に再び建設省多目的ダムとして事業進められていった

※この「揖斐川のダム計画」の解説は、「徳山ダム」の解説の一部です。
「揖斐川のダム計画」を含む「徳山ダム」の記事については、「徳山ダム」の概要を参照ください。

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