捜査と影響
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「スタラグ・ルフト III」の記事における「捜査と影響」の解説
ゲシュタポが脱走の捜査を行ったが、脱走に関する目ぼしい新たな情報は見つからなかった。収容所長のフォン・リンダイナーは解任され、軍法会議にかけられるところであった。精神疾患を装い収監を回避したフォン・リンダイナーは、歩兵部隊の副司令官を務めていた時にベルリンに向け進軍してくるソ連軍との戦いで負傷した。終戦時にフォン・リンダイナーは英軍部隊に投降し、2年間「ロンドン監獄」("London Cage")として知られる英国の刑務所に収監された。英国のSIBが50名の脱走者の処刑に関する調査を行ったときにフォン・リンダイナーは証言を行った。元々ゲーリングの参謀の一人であったフォン・リンダイナーは、退役申請が認可されなかった後ザーガンの収容所長に任命されていた。捕虜の取り扱いに関するジュネーブ条約を遵守したフォン・リンダイナーは捕虜の上級将校から尊敬を受けていた。フォン・リンダイナーは1947年に釈放され、1963年に82歳で死去した。 1944年4月6日に新しい「収容所長」のエリッヒ・コルテス(Erich Cordes)中佐は、41名の脱走者が逮捕に抵抗して射殺されたというドイツ軍最高司令部からの公式な連絡を受け取った旨を英軍捕虜の先任将校に通知した。後にコルテスはフランツ・ブラウネ(Franz Braune)大佐と交替した。ブラウネはそれ程多くの脱走者が殺されたことに酷くショックを受け、収容所に残っていた捕虜に慰霊碑を建立することを許可し、ブラウネ自身も寄付をした。慰霊碑は現在もそこにある。 銃殺された捕虜を選別した人物であると信じられているアルトゥール・ネーベは、後に7月20日のヒトラー暗殺計画への関与により処刑された。 英国政府は脱走者死亡の件を5月に利益保護国としてスイス当局が行った収容所への定期訪問で知り、外務大臣のアンソニー・イーデンは1944年5月19日に庶民院にこの知らせを発表した。この発表後間もなく収容所で英軍の先任将校であったハーバート・マッセイ大佐が健康上の理由で英国に送還されてきた。帰国するとマッセイは脱走の状況と逮捕された脱走者の処刑の真相を政府に報告した。6月23日にイーデンは議会に戦争が終結したらこの件の責任者に戒めの裁きを行うことを確約した。戦争が終わると英空軍の調査局により大々的な犯人検挙が行われた。 米軍大佐のテルフォード・テイラーは、ニュルンベルク裁判の国防軍最高司令部裁判で米側の検察官であった。この裁判では陸軍総司令部と国防軍最高司令部が犯罪者集団として訴追され、その証人は生き残った数人のドイツ軍の元帥とその参謀達であった。訴追された犯罪の一つがザーガンの50名の処刑の件であった。国家元帥ヘルマン・ゲーリングの参謀であったドイツ空軍のベルント・フォン・ブラウヒッチュ大佐は、この処刑に関してホレース・ハーン大尉に尋問された。脱走者の処刑に関与した数名のゲシュタポ将校が死刑に処され、投獄された。
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