捜査と捕獲
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1980年代になるとコルレオーネシの勢力が拡大し、グレコも彼らに従わざるを得ない状況になり、他のマフィアからはコルレオーネシの言いなり、「無力の法王」と呼ばれたりもしていたという。 1982年7月、サルヴァトーレ・コントルノによる匿名の情報に基づいて、警察署長のアントニーノ・"ニンニ"・カッサラは162人のマフィア構成員を逮捕する為、彼らの調査報告書を作成した。この調査報告書は非公式なものではあったが、「ミケーレ・グレコ+161」という名で知られていた。そのリポートはタイトルが示すようにグレコに対して重点が置かれている事を示していた。 1985年8月6日、カッサラ署長と彼のボディガードのジョヴァンニ・レルカラは、自宅前にて妻が見ているところを、15人の暗殺チームにより殺害された。虐殺と言っていいほどの酷い惨状に彼の妻は大きなショックを受けた。彼の作成した「ミケーレ・グレコ+161」は、後に開かれるマフィア大裁判へと繋がっていく捜査活動の開始点となった。その裁判において、マフィアの中枢を取り仕切るボス達は、大量の犯罪行為に対する容疑者として裁判にかけられた。 1983年7月9日、ジョヴァンニ・ファルコーネ判事から、1982年9月3日に暗殺されたパレルモ知事カルロ・アルベルト・ダッラ・キエーザ将軍の事件に対する殺人容疑とその他14件の事件に対して、彼の兄弟のサルヴァトーレ・グレコ、サルヴァトーレ・リイナ、ベルナルド・プロヴェンツァーノ、そしてベネデット・"ニット"・サンタパオラらと共に起訴された。 その後、グレコは4年間行方をくらませていたが、1986年2月20日にカッカモ村で逮捕された。そして、彼は10日前に始まっていたマフィア大裁判の被告席に加わった。裁判において、ミケーレ・グレコは、1983年7月29日に車に仕掛けられた爆弾で死亡した反マフィア治安判事ロッコ・キンニーチ(イタリア語版)及び二名の彼のボディガードと巻き添えになった被害者(キンニーチのアパートのコンシェルジュ)計4人を含む83件の殺人に対する容疑者として告発された。 グレコは、他の容疑者達と同様に、自分は完全に無実であり、マフィアについては何も知らないと証言台で主張した。そして彼は、自分が正直な一市民であり、名士であることを示すためか、かって彼が所有する邸宅に元検察官や署長等招いていたことのある名士達全ての名前を挙げて自慢した。また、グレコは、ステファノ・ボンターデがしばしば彼の所有地で狩猟していたことは認めた。そして「ボンターデが暗殺される数日前の聖金曜日に、ボンターデと共に休日を過ごしていた」と述べ、彼と親しかった自分がボンターデ暗殺に関与していない事を強く主張した。 1987年12月16日の裁判終結時、彼は全ての告発に対し有罪となり、終身刑を言い渡された。この時、彼は63歳であった。 グレコは1991年2月27日に訴えが認められ一旦釈放された。しかし、イタリア司法省刑事局局長になったジョヴァンニ・ファルコーネはグレコと他のマフィア構成員達を再度監禁することを命令した。そして、グレコは1992年2月、再逮捕され再び刑務所に戻ることになった。 2008年2月13日、ローマにある刑務所内にて肺癌のため死亡した(83歳没)。
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