戦後~海上自衛隊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/18 03:24 UTC 版)
1945年(昭和20年)10月、旧佐世保鎮守府に出仕。12月に佐世保地方復員局艦船運航部勤務を命ぜられて以降、旧日本兵の復員関連業務、船舶の安全運航確保のための日本周辺の機雷掃海、更に海上警備隊から海上自衛隊へと軍人生活は続いた。 復員局時代は、主として特別輸送船(復員船)の運航、補給、修理等の業務を行う。海上保安本部時代は、主として戦時中日本周辺海域に敷設された機雷(日本海軍約55,000個、米海軍約11,000個)の掃海、補給業務に従事。海上警備隊時代は、後の海上自衛隊創設を睨んだ各種業務に取り組んだ。1954年(昭和29年)、海上自衛隊創設に伴い、二等海佐となり、護衛艦「しい」艦長に就任。兵学校出身士官の定席だった「艦長」を、海軍史上初めての機関学校出身士官として務めた。 戦後の混乱の中、所属や業務内容、勤務地が頻繁に変わったことで、家族は度重なる引っ越しを余儀なくされた。1947年(昭和22年)、次男彰夫が誕生。1955年(昭和30年)に東京都武蔵野市に居を構えるまで、一家は計7回の引越しを経験する。 当時国民の間では、自衛隊の創設は「実質的な再軍備」との抵抗感が根強くあり、自衛隊隊員や家族達は長期にわたり白眼視された。子供達2人も、転校するたびに教師や級友から「お前の親父は税金泥棒、非国民」といった悪口雑言を浴びせられている。1970年(昭和45年)、海将となった浜口が舞鶴地方総監に就任した際には、当時の京都府知事・蜷川虎三に挨拶すべくアポをとった上で訪問したにも関わらず、玄関払いをされるという侮辱・屈辱を味わっている。 舞鶴地方総監就任の翌1971年(昭和46年)、定年を待たず勇退、退官。海軍機関学校生徒として青春を燃やし、兵学校教官として多くの若者と交わり、自衛隊創設時の苦労等思い出深い舞鶴の地で、38年に亘る海軍軍人生活に終止符を打つ。
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