戦前:新治郡衙跡・新治廃寺跡の発掘調査
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「藤田清」の記事における「戦前:新治郡衙跡・新治廃寺跡の発掘調査」の解説
藤田家のある古郡地区には古い遺跡があり、1921年(大正10年)に当地を訪れた黒板勝美、柴田常恵はその遺跡が新治郡衙跡であると指摘した。それを聞いた藤田は以後遺跡への関心を高め、1929年(昭和4年)3月には「新治郡家之阯」の顕彰碑を遺跡のある地に建てる事をした。その他、国有地であった遺跡の土地の民間への払い下げに反対したり、青年会(後の青年団)に郷土研究会を作るなど、郷土の歴史遺産の顕彰と保全に務めた。 更に広瀬半之助、小野武夫の関わりで、学会誌に遺跡に関する記事を寄稿することになり、1935年(昭和10年)6月の『社会経済史学』第5巻3号に『常陸の不動倉』と題した記事を載せた。藤田はこの記事で古群地区の遺跡が新治郡衙跡である可能性を世に知らしめた。 この記事が新治廃寺跡・新治郡衙跡の発掘調査のもう一人の主要人物である高井悌三郎を呼び寄せた。1934年(昭和9年)に京都帝国大学を卒業後すぐ、水戸に茨城県立水戸第二高等女学校、茨城県女子師範学校の教員として赴任した高井は、この『常陸の不動倉』を読み、古郡遺跡に関心を持ち、古郡の藤田宅を訪れた。高井は藤田の案内で遺跡を巡り、藤田の遺跡の保存顕彰への思いに触れ、新治廃寺跡・新治郡衙跡の発掘を提案し、藤田もこれに賛同した。そして1939年1月28日(昭和14年)に新治廃寺跡の発掘調査が始まった。この調査に藤田は自らが中心となって結成した「新治郡上代遺跡研究会」の会員と共に協力をしている。 廃寺跡調査に続き1941年(昭和16年)10月5日から郡衙跡調査が始まった。この調査により新治郡衙の概要が明らかにされたが、これは日本の古代郡衙遺跡としては初めてのことであり、藤田はこの調査に対し、事前に建物の基礎地固め土の範囲を畑耕作者に聞き取り調査を行い推定したり、調査にも「新治郡上代遺跡研究会」の会員と共に協力するなど貢献している。 これら新治廃寺跡、新治郡衙跡発掘調査は高井の著による『常陸国新治郡上代遺跡の研究』で報告されているが、その書において高井は、これらの調査は藤田の理解と援助がなくてはなされなかったであろう、と述べている。 新治廃寺跡・新治郡衙跡発掘調査で得た資料は藤田が保管することになり、後に新治汲古館のコレクションの中核となった。
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