戦前:新治郡衙跡・新治廃寺跡の発掘調査とは? わかりやすく解説

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戦前:新治郡衙跡・新治廃寺跡の発掘調査

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/20 06:13 UTC 版)

藤田清」の記事における「戦前:新治郡衙跡・新治廃寺跡の発掘調査」の解説

藤田家のある古郡地区には古い遺跡があり、1921年大正10年)に当地訪れた黒板勝美柴田常恵はその遺跡新治郡衙跡であると指摘した。それを聞いた藤田以後遺跡への関心高め1929年昭和4年3月には「新治郡家之阯」の顕彰碑遺跡のある地に建てる事をした。その他、国有地であった遺跡土地民間への払い下げ反対したり、青年会(後の青年団)に郷土研究会作るなど、郷土歴史遺産顕彰保全務めた。 更に広瀬半之助、小野武夫関わりで、学会誌遺跡に関する記事寄稿することになり、1935年昭和10年6月の『社会経済史学』第5巻3号に『常陸不動倉』と題した記事載せた藤田はこの記事で古群地区遺跡新治郡衙跡である可能性世に知らしめた。 この記事新治廃寺跡新治郡衙跡発掘調査もう一人主要人物である高井悌三郎呼び寄せた1934年昭和9年)に京都帝国大学卒業後すぐ、水戸茨城県立水戸第二高等女学校茨城県女子師範学校教員として赴任した高井は、この『常陸不動倉』を読み古郡遺跡関心持ち古郡藤田宅を訪れた高井藤田案内遺跡巡り藤田遺跡の保存顕彰への思い触れ新治廃寺跡新治郡衙跡発掘提案し藤田もこれに賛同した。そして1939年1月28日昭和14年)に新治廃寺跡発掘調査始まった。この調査藤田は自らが中心となって結成した新治郡上代遺跡研究会」の会員と共に協力をしている。 廃寺調査続き1941年昭和16年10月5日から郡衙調査始まった。この調査により新治郡衙概要明らかにされたが、これは日本古代郡衙遺跡としては初めてのことであり、藤田はこの調査対し事前に建物基礎地固め土の範囲を畑耕作者に聞き取り調査行い推定したり、調査にも「新治郡上代遺跡研究会」の会員と共に協力するなど貢献している。 これら新治廃寺跡新治郡衙跡発掘調査高井の著による『常陸国新治郡上代遺跡研究』で報告されているが、その書において高井は、これらの調査藤田理解援助なくてはなされなかったであろう、と述べている。 新治廃寺跡新治郡衙跡発掘調査得た資料藤田保管することになり、後に新治汲古館コレクション中核となった

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