性的虐待と子供の心理の関連
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/10 10:16 UTC 版)
「児童性的虐待」の記事における「性的虐待と子供の心理の関連」の解説
加害者と被害者が成人である場合大抵は身体的もしくは精神的強要があるのが普通であるが、子供が虐待されている場合には一見すると同意しているような場合も少なくない。 菅原昭秀 (1990) は大阪府児童相談所で扱った女児39人(加害者はうち37人が継父や養父を含む父親、叔父が1人、母親が1人)のうち33人が性的虐待に対し拒否的な反応を示してはいたが、その虐待者本人に対して否定的な反応を示していたのは18人に過ぎなかったという報告をしている。残りの21人のうち、5人は拒否をしつつも同情的な態度、13人は曖昧な態度、3人は肯定的な態度をとっていたという。 近親姦の体験者は虐待の犠牲になったという認識そのものは正しいが、その心の深層には緊密で複雑なアンビバレントな関係がある。多くの子供は虐待者に対し愛情と憎しみが複雑に絡み合った感情を抱くが、これは性的虐待を受けた人に激しい混乱をもたらす。憎しみか愛情のどちらかの面を取り解決しようとすることも多いが、この場合突然愛情が憎しみに変わったり、憎しみしか感じることができなくなったりする。 また、こうした被害を受けた人をさらなる混乱に陥れているのは文化的な問題によるところも大きい。もともと近代文明はそういった現象を抑圧し続けてきたため、必然的に性的虐待を受けた場合社会から阻害されてしまうような感覚に襲われてしまうことが多い。こうした場合、性的虐待が存在しないことを想定されて作られた文化的価値観を内面化していればいるほど心理的な被害は大きくなってしまう。こうした社会のメッセージによる子供の心理的反応のことをFinkelhor and Browne (1985) は「烙印押し (stigmatization)」と呼んだ。 性的虐待のトラウマの度合いは、その個人の主観的体験に依存する。そのため、ある人は外部的に見ればひどくトラウマティックな体験をしてもトラウマにならなかったり、ある人は外部的には大したことでなくともトラウマになる。そのため、まれではあるものの性的虐待を受けているにもかかわらずトラウマになっていない場合も存在する。だが、だからといってその行動そのものが虐待的でなかったということにはならない。さらに、男性に多いが明らかに性的虐待による重度のトラウマ症状を呈しているのにもかかわらず、自身のトラウマを否認している場合が多く存在することも知られている。 また、刺激に対して身体が反応してしまう場合が少なくない。こうした場合、女性の場合は快感を持ったことで自分自身が罪深いのではないかと思うことが多く、さらに男性の場合には自分の身体の勃起や射精とかいうものは自分の力でコントロール出来るものであるという自信がそのまま打ち砕かれる。人間の身体は生理学的にそのように出来ているため、これは自然な反応なのであるが、本人たちにとって見ればこうした現象はそのまま自己への不信へと繋がるのである。 また、大抵子供は「自分に責任がある」と思いやすく、性的虐待を受けた子供が親がおかしいことを訴えることはそのまま自分を訴えることとほぼ同じことになる。フロレンス・ラッシュ (1980) は「被害者が加害者を告発すれば、自分自身をも告発する事になる。だからこそ児童性虐待は世界でもっともよく守られている秘密なのである」と述べている。子供が話すだろうと思う人も多いが、近親姦(的行為)を受けた子供の多くはこのために自分の受けた被害のことを話すことはない。
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