徳島県政への影響力低下とは? わかりやすく解説

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徳島県政への影響力低下

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:48 UTC 版)

三木武夫」の記事における「徳島県政への影響力低下」の解説

総選挙敗北責任取り三木政権退陣、それからまもなく、徳島における三木影響力低下見られるようになった1977年昭和52年)の知事選で、武市が4選出馬を表明するが、前年始まった自民党県議団の分裂騒ぎもあって、保守系県議賛成派反対派割れた。県選出国会議員も、三木と久次米は武市支持後藤田と小笠は不支持森下元晴当初中立、後に武市支持となった。また社会党衆議院議員井上普方後藤田の甥であり、やはり反武市派となり、公明党広沢直樹も反武市であったこのような中、保守系の反武市県議革新陣営共同県議会武市知事4選出断念勧告決議案提出可決され県政刷新議員連盟組織する武市県政批判強めていた徳島新聞森田社長後押しした。同連盟は、三木申三無所属)を知事候補共同擁立した三木申三は、かつて翼賛選挙時に翼協推薦候補となったものの三木武夫破れ落選した三木熊二の三男であった一方武市自民党公認申請したが、当時県連会長は反武市派の小笠であり、県連武市1974年参院選無所属の久次米を応援したことを理由に、公認難色示した武市支持派県連総務会開催強行し公認決定する至った。この決定有効性めぐってごたごた続いたあげく、自民党本部からは武市公認ではなく自民党党籍証明を出す妥協案が提示され最終的に福田赳夫総裁名で徳島県選挙管理員会に政治団体確認書提出することによって、武市公認候補とはならなかったものの、知事選自民党を名乗れることになった三木武夫武市応援したが、知事選激戦となり、結局わずか約1500票差で武市が4選を果たした直系武市ここまで苦し戦い強いられたことは、三木徳島県政への影響力衰退象徴していた。そして1979年昭和54年)の第36回衆議院議員総選挙で、三木戦後ずっと守ってきていたトップ当選の座を明け渡す1981年昭和56年)の知事選で、武市は5選出馬を表明三木申三リベンジ出馬する自民党県連森下元晴会長一任武市後任出し、党本部もそれを認めたが、自民党内の武市派は公然と反発して三木申三への支持表明し自民党またしても分裂選挙となった三木申三前回同じく自民党以外の政党にも支持広めるべく無所属での立候補選択し社会党始めとする各党はなだれを打って三木申三支持表明した三木武夫武市への支持続けたが、三木派県議中にも前回知事選辛勝した段階で5選出馬はないと考えていた者がいたくらいで、武市対す多選批判厳しかった結局知事選では三木申三が約32000票差で武市破り三木武夫直系知事失った直系知事失った三木徳島県政への影響力衰退一途辿った三木申三知事就任後徳島県議会では後藤田派の県議増加し三木派県議中にも三木申三知事表立って反対しない県議現れるようになった1985年昭和60年)の知事選では、再選目指す三木申三対し三木武夫自派人物対抗して擁立することはなく、三木派県議多くは、秋田大助系の山本潤造徳島市長を辞職)の支援回ったが、山本支援しない三木派県議もおり、三木申三山本破って再選を果たす。三木武夫その3年後の1988年昭和63年)に死去する

※この「徳島県政への影響力低下」の解説は、「三木武夫」の解説の一部です。
「徳島県政への影響力低下」を含む「三木武夫」の記事については、「三木武夫」の概要を参照ください。

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