徳島県政への影響力低下
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同総選挙の敗北の責任を取り三木政権は退陣、それからまもなく、徳島における三木の影響力の低下が見られるようになった。1977年(昭和52年)の知事選で、武市が4選出馬を表明するが、前年に始まった自民党県議団の分裂騒ぎもあって、保守系県議は賛成派と反対派に割れた。県選出国会議員も、三木と久次米は武市支持、後藤田と小笠は不支持、森下元晴は当初中立、後に武市支持となった。また社会党衆議院議員の井上普方は後藤田の甥であり、やはり反武市派となり、公明党の広沢直樹も反武市派であった。このような中、保守系の反武市派県議と革新陣営は共同で県議会に武市知事4選出馬断念勧告決議案を提出、可決され、県政刷新議員連盟を組織する。武市県政批判を強めていた徳島新聞の森田社長も後押しした。同連盟は、三木申三(無所属)を知事候補に共同擁立した。三木申三は、かつて翼賛選挙時に翼協推薦候補となったものの三木武夫に破れ落選した三木熊二の三男であった。 一方、武市は自民党に公認を申請したが、当時の県連会長は反武市派の小笠であり、県連は武市が1974年の参院選で無所属の久次米を応援したことを理由に、公認に難色を示した。武市支持派は県連総務会開催を強行し、公認を決定するに至った。この決定の有効性をめぐってもごたごたが続いたあげく、自民党本部からは武市は公認ではなく自民党の党籍証明を出す妥協案が提示され、最終的に福田赳夫総裁名で徳島県選挙管理員会に政治団体確認書を提出することによって、武市は公認候補とはならなかったものの、知事選で自民党を名乗れることになった。三木武夫は武市を応援したが、知事選は激戦となり、結局わずか約1500票差で武市が4選を果たした。直系の武市がここまで苦しい戦いを強いられたことは、三木の徳島県政への影響力の衰退を象徴していた。そして1979年(昭和54年)の第36回衆議院議員総選挙で、三木は戦後ずっと守ってきていたトップ当選の座を明け渡す。 1981年(昭和56年)の知事選で、武市は5選出馬を表明、三木申三もリベンジで出馬する。自民党県連は森下元晴会長の一任で武市に後任を出し、党本部もそれを認めたが、自民党内の反武市派は公然と反発して三木申三への支持を表明し、自民党はまたしても分裂選挙となった。三木申三は前回と同じく、自民党以外の政党にも支持を広めるべく無所属での立候補を選択し、社会党を始めとする各党はなだれを打って三木申三支持を表明した。 三木武夫は武市への支持を続けたが、三木派の県議の中にも、前回の知事選に辛勝した段階で5選出馬はないと考えていた者がいたくらいで、武市に対する多選批判は厳しかった。結局知事選では三木申三が約3万2000票差で武市を破り、三木武夫は直系の知事を失った。直系の知事を失った三木の徳島県政への影響力は衰退の一途を辿った。三木申三知事就任後、徳島県議会では後藤田派の県議が増加し、三木派の県議の中にも三木申三知事に表立って反対しない県議が現れるようになった。1985年(昭和60年)の知事選では、再選を目指す三木申三に対し、三木武夫は自派の人物を対抗して擁立することはなく、三木派の県議の多くは、秋田大助系の山本潤造(徳島市長を辞職)の支援に回ったが、山本を支援しない三木派の県議もおり、三木申三は山本を破って再選を果たす。三木武夫はその3年後の1988年(昭和63年)に死去する。
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