徳司神社
徳司神社 とくし 鎮座地 三重県熊野市新鹿町309あたしか ご祭神 天御中主尊 (合祀) 倉稻魂命 菅原道眞 天照皇大神 譽田別命 | ||||||
新鹿の南、JRと国道311号線に挟まれ東面して鎮座している。新鹿の産土神。 ご祭神は合祀されたものが多く、誉田別命は新鹿の西方、字久保川の八幡神社より、明治四十三年に合祀。菅原道真公は、字久保川に鎮座していた菅原神社より、明治四十二年合祀。 また、菅原神社の境内に鎮座していた万度神社(祭神天照皇太神)と稲荷神社(祭神倉稲魂命)を菅原神社といっしょに合祀された。 | ||||||
しかし、『紀伊続風土記』には「祀神詳ならず」とある。寛永七年十月、と墨書される本社最古の棟札に「徳司大明神」とある。口碑によると、本社を当地の産土神として奉祀したときは、当地の戸数八戸でそのときの祀神は「神日本磐余彦尊」であったという。当社近辺から縄文以下の土器及び石器出土を見る先史遺蹟であるというから、ここは古い祭祀場所であって、当社の祭祀も古い歴史をもつものと思われるが、宝永の津波に古記録をことごとく流失したためわからない。明治初年神仏分離令の時祀神を「天御中主命」とされ、ついで、明治四十年(1907)神社合祀令のとき字久保川の八幡神社と菅原神社を合祀して村社となった。 | ||||||
徳司神社の奇端伝説 大昔、碇泊中の船が難破しそうになった。そのとき船主が一心に徳司大明神を念じていると、お宮の御幣が一本の大綱を曳いて飛び来り、大難をまぬがれた。船主はそのことを絵師に描かせて、絵馬として奉納していたが、この絵馬は近年まで残っていたという。 明治四十五年九月二十二日の夜、愛知県半田の鎌太郎親子が乗組の丸千船が新鹿港で遭難、最後の命綱も激浪のためつないだ綱杭が折れ、今はこれまでと一心に徳司大明神を念じていた。高波の差引につれて黒川筋を里川橋まで三度も上下したが船体に故障もなく、最後に甫本の兵蔵屋裏畑まで押流された。船体が急に傾斜するとともに徳司神社の森に奇端の光明が輝いた。そのとき親子とも陸に飛び降り、命だけは無事であったという。 | ||||||
祭典は十一月三日。徳司神社の祭典には、船漕ぎ、神輿担ぎなどの特殊な行事はなく、当地は熊野灘の沿岸にありながら漁村ではなく、農山村として発達したためであると思われる。 | ||||||
徳司神社
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/01 14:57 UTC 版)
天御中主神、倉稲魂命、菅原道真、天照皇大神、誉田別命を祀り、近代社格制度に基づく旧社格は村社であった。創建時期は不詳ながら、縄文時代の土器が周辺で出土していることから同時代からの祭祀場であったとする説がある。最古の棟札には寛永7年(1630年)の文字がある。記録に残る限り新義真言宗(根来寺)派の修験者の家系である宮本家が神職を務め、明治の神仏分離に一時木本神社の神職が兼務したが、後に宮本家に復している。社叢は亜熱帯性・暖地性の樹木を多く含み、三重県の天然記念物に指定されている。江戸時代に新鹿は木材流通の重要な港であったことから、社頭に東海地方から関東地方にかけての廻船問屋や個人が奉納した灯篭がある。江戸時代には当社のほかに9つの神社があった。
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