弘法大師伝説
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「八坂寺 (徳島県海陽町)」の記事における「弘法大師伝説」の解説
鯖大師と呼ばれる由縁は、この地を訪れた空海(弘法大師)の伝説による。 伝説に拠れば、平安時代初期の弘仁年間(810年 - 823年)に空海が八坂八浜を訪れた際に、行基手植えの松の下で野宿し行基の夢を見た。そこを塩鯖を馬に背負わせた馬子が通りがかった。空海が塩鯖を所望したところ、馬子は口汚くののしり断った。坂にさしかかったところで馬が急に苦しみ動かなくなった。慌てた馬子は先ほどの僧は巡錫中の空海に違いないと思い、空海に鯖を差し出し馬を治して欲しいと懇願した。空海が加持水を馬に与えたところ、馬はたちまち元気になった。また、空海が法生島(ほけじま)で先ほどの塩鯖に加持祈祷を行い、海に放ったところ塩鯖は生き返り泳いで行った。これに感服した馬子は空海の弟子となり、この地に小堂を建て行基の像を祀り「行基庵」と名付けた。また「鯖瀬庵」とも呼ばれた。空海が加持祈祷を行った海岸は鯖瀬(さばせ)と呼ばれている。
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弘法大師伝説
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会津五薬師の建立に関して次のような伝説がある。昔、会津の地は磐梯山に住む魔物によって常に霧が立ち込め、太陽が遮られて作物が育たなかった。そのため、人々に病気が蔓延し、長い間苦しめられた。このことを聞いた朝廷は弘法大師(空海)を会津に派遣した。弘法大師は法力により魔物を撃退し、さらに、人々の無病息災や心身堅固、五穀豊穣の祈願のため、5体の薬師如来像を造立することとした。しかし、完成直前に朝廷より帰京の命が下ったため、後事を徳一上人に依頼し、やむなく帰京した。その後、徳一は5つの堂を会津各地に建立し、完成した5つの薬師如来を安置したという。空海が会津へ来たという確証はなく、また、徳一は南都六宗の一つ法相宗の僧で新興仏教の担い手であった空海とは対立する立場であった。そのため、上記の伝承はあくまでも伝説であって、事実ではないといえる。会津五薬師が現在真言宗寺院となっていることから、おそらくこれらの寺が真言宗に改宗した際に寺を空海と結びつけるためにこのような話を創造したのであろう。
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弘法大師伝説
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平安時代には、空海(弘法大師)が巡錫中に立ち寄った場所といわれており、空海が乙宝寺境内の地面を仏具の「独鈷杵」(とっこしょ)で突くと水が湧き出したという伝説がある。名前は独鈷で突いた水「独鈷水(どっこすい)」が次第に訛って「どっこん水」と呼ばれるようになり、その水は約1200年たった現代でも境内に豊富に湧き出ている。この水は飯豊連峰の伏流水で、胎内市乙周辺で広く水道水の代わりとして利用している。
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