建武の新政と南北朝の動乱・室町幕府
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:15 UTC 版)
「日本の軍事史」の記事における「建武の新政と南北朝の動乱・室町幕府」の解説
鎌倉時代後期になると、北条得宗家による権力の独占、元寇以来の政局不安など、幕府は次第に武士層からの支持を失っていった。また、諸国では悪党の活動が活発となった。このような中、後醍醐天皇は悪党の楠木正成や幕府側の御家人である新田義貞、足利尊氏らの協力を得て、1333年に倒幕に成功する(元弘の乱)。倒幕後、後醍醐天皇は天皇親政による政治を復活しようとした(建武の新政)。 しかし新政では公家が優遇されたために武士らの離反を招いた。足利尊氏も離反し、一旦は敗れて九州に下ったが再度京都を奪回した(延元の乱)。尊氏は室町幕府を成立させ将軍の下で新たな政治秩序を構築した。一方、後醍醐天皇は吉野に逃れ南朝を開き、その後50年以上にわたって南北朝の騒乱が続いた。戦乱は地方にも及んだため、武士は遠隔地への長期遠征を余儀なくされ、領地の支配、特に地方に分散した領地の支配が難しくなった。これを防ぐために武士間による領地の売却や交換が行われ領地の一円化が進んだ。戦費を調達するために、室町幕府は荘園・公領の年貢半分の徴収権を守護に認めたため(半済)守護の経済力は向上した。また守護は地方の武士と直接的な主従関係を結ぶようになり、後の守護大名への発展の基盤が出来た。他方、公家の力は低下していった。 鎌倉末期から南北朝にかけての戦力は、正規の武士に加えて、「野伏(のぶし)」と呼ばれる農民から徴集される兵から構成されていた。兵力の大規模化と共に、従来の騎馬戦闘に代わって集団戦・接近徒歩戦が盛んになり、上級武士の間では胴丸・腹巻が多く用いられるようになり、騎馬戦闘に特化した大鎧は廃れていった。また、薙刀に代わって集団戦での使用に適した槍が使用されるようになった。 元弘の乱において、楠正成は山城である千早城に篭城し鎌倉幕府の大軍を引き付けた。当時の攻城戦術は未熟であり、山城を早期に落城させることは困難であった。南北朝時代においても、戦力に劣る南軍はしばしば山城を利用した。その後戦国時代にかけて山城は防御戦闘の中心的役割を果たすことになる。
※この「建武の新政と南北朝の動乱・室町幕府」の解説は、「日本の軍事史」の解説の一部です。
「建武の新政と南北朝の動乱・室町幕府」を含む「日本の軍事史」の記事については、「日本の軍事史」の概要を参照ください。
- 建武の新政と南北朝の動乱室町幕府のページへのリンク