度重なるバプテスト迫害
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/31 14:54 UTC 版)
「ウィリアム・キッフィン」の記事における「度重なるバプテスト迫害」の解説
1660年の王政復古でチャールズ2世および王党派やイングランド国教会が復帰、キッフィンは革命前の迫害される立場に逆戻りして再び苦難の道を歩むことになった。王政復古前の2月に武器隠匿の罪で逮捕、すぐに釈放されたが5月には国王崇拝に熱狂的な暴徒により教会の集会場を破壊されたり、1661年1月に第五王国派のトマス・ヴェンナー(英語版)が起こした反乱に連座の嫌疑をかけられ逮捕されたが釈放、2月にも非合法集会出席で逮捕・釈放されている。クラレンドン法典の公布でバプテストを含む非国教徒の迫害は深刻になり、1662年末にバプテストはニューゲート監獄で289人収監、ロンドン塔で18人収監された。 キッフィンは迫害に対して宮廷の高官に働きかけて抵抗、国王チャールズ2世の保護も取り付ける方法に出た。1663年にバプテスト14人が非合法集会出席で死刑宣告された時、死刑囚の家族から救済を求められて助命嘆願に動き、知り合いで宮廷に顔が広いレディ・キャサリン・ラネラ(英語版)(ロバート・ボイルの姉)に同じく知り合いのクラレンドン伯爵エドワード・ハイドへの取り成しを依頼、彼女からの手紙をクラレンドン伯へ届けてチャールズ2世の恩赦を獲得、14人の釈放を勝ち取った。このキッフィンの運動が成功した背景にはキャサリンやクラレンドン伯と知己だったことも大きいが、クラレンドン伯の政敵であるバッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズがバプテストと対立関係だったことも一因とされる。 1666年からはダニエル・ダイク(英語版)とリチャード・アダムスの2人に助けられながら牧師を務め、1670年に度重なる災害や戦争で財政難に苦しむチャールズ2世へ4万ポンドの貸付があった際、全体の1割近くに当たる3600ポンドを貸し付けている(他のバプテスト5人も含めて4800ポンド)。1669年と1670年にロンドン市参事会員に選ばれながらも、国教徒の反発から就任を拒否されたが、経済界では要職就任に成功、1671年から1672年まで鞣革商人組合会長を務め、シャフツベリ伯爵アントニー・アシュリー=クーパーと秘書のジョン・ロックとも友好関係を構築、1672年に2人が設立に関わったバハマ諸島会社の社員の1人にも選ばれた。だが迫害は続き、クラレンドン法典の一部を構成する1664年施行のコンヴェンティクル条令(秘密集会法とも)が1670年5月に再施行されると集会の罪で逮捕されたが、事前に法律顧問のブルストロード・ホワイトロック(英語版)に救済を依頼したことが功を奏したのか裁判で勝訴、罰金40ポンドを取り戻す成果を挙げている。
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