度重なるルート変更
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 18:40 UTC 版)
「箱根登山鉄道鉄道線」の記事における「度重なるルート変更」の解説
当初の免許では、須雲川の右岸を遡り、須雲川集落から北上して大平台駅へ抜け、宮ノ下駅からトンネルを2つ掘って強羅駅に行くという、総延長が約13 kmになるルートであったが、この時期に軌道線が早川の洪水によって軌道が流失してしまい、ルート変更を余儀なくされたため、登山鉄道のルートも再検討することとなった。 そこで、1911年5月には塔ノ沢駅までは早川の左岸を進み、塔ノ沢駅の先で早川を渡り大平台駅に至るルートに変更された。このルート案では、電気機関車が客車2両を牽引することになっていて、最急の勾配が125 ‰(パーミル)のアプト式鉄道とする計画で、湯本から強羅までの距離は7.1 kmほどとなるルート設定であったが、当時既に最急勾配が66.7 ‰のアプト式鉄道として開通していた信越本線の横川駅 - 軽井沢駅間(碓氷峠)よりも急な勾配であることから、社内で不安の声が上がった。また、自然を破壊し景観が損なわれるという懸念もあったため、再度検討することになり、1912年7月に主任技師長の半田貢をヨーロッパに派遣した。 半田は半年ほどの視察の後に帰国したが、スイスのベルニナ鉄道においては70 ‰の急勾配が20 kmほど連続しており、これから敷設しようとしている登山鉄道と似た点が多く、大いに参考になったという。しかし、粘着式鉄道では125 ‰もの急勾配は登れないことが分かったため、スイッチバックを途中3箇所に設けた、最急勾配80 ‰の粘着式鉄道として建設することになった。建設工事は半田の帰国を待たずに1912年11月に一部が開始されていたが、すぐに中断となり、1913年3月に計画・設計の変更届けを鉄道院に提出した。この計画・設計の変更は、当時日本国内において前例のない急勾配を有する鉄道計画でありながら同年6月には認められているが、半田の調査報告書などでベルニナ鉄道のブレーキ試験結果なども添付されていたため、その報告書を鵜呑みにするしかなかったと推測されている。
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