幽閉 - 永眠
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 14:00 UTC 版)
「ティーホン (モスクワ総主教)」の記事における「幽閉 - 永眠」の解説
1922年4月、共産党書記局はレーニンの主張により、ティーホンに対し死刑の極秘判決を下した。6月に、ティーホン総主教は自宅に幽閉された。総主教が幽閉されたことで、ロシア正教会内の急進的なグループが分派を形成する。「生ける教会」を称した彼らは、教会の分裂を期待するボリシェヴィキ政権の後押しを得て勢力拡大に努めたが、同運動は結局人望も学識もない指導層の運動に終わって下火となった。 1923年4月、レーニンの病状悪化の後、ジェルジンスキーはティーホンの死刑の延期を主張した。宗教問題の実権が強硬派のトロツキーから慎重派のカーメネフに移り、1923年6月16日ティーホンが「ソビエト権力の敵ではない」との書簡を公表した後、同月25日最高裁は逮捕拘束を解いた。こうしてティーホンは死刑をまぬかれた。生ける教会運動による教会分裂の計画が失敗に終わったため、ボリシェヴィキはティーホン総主教を解放、再びティーホンを交渉相手とすることを企図したが、ティーホンにとっては教会維持のための難しい交渉の日々が続いていった。亡命者たちによって構成されていた在外ロシア正教会が国外で帝政復活の支持を宣言して白軍を支援していたことも、ロシア正教会およびティーホン総主教の立場を悪化させた。 1924年、体調を崩して入院したが、主日(日曜日)およびその他の教会の祭日には、病院を一時退院して奉神礼の司祷にあたっていた。1925年4月7日、最後の聖体礼儀を司祷した日の夜、少し眠った後に起きた総主教は時刻をたずね、午後11時45分との答えを聞いた後、「主よ、光栄は爾に帰し、光栄は爾に帰す」と唱えて十字を2回画き、永眠した。3回目を画く時間は残されていなかった。この日は生神女福音祭の日であった。ティーホンは遺言でソビエト当局に対する忠誠を誓ったと公表されたが、この遺言が本物であるかどうかについては直後に疑問が持たれ 、いまだに結論は得られていない。 ティーホンの総主教在位は7年半におよんだ。過酷な宗教弾圧の吹き荒れるソ連時代初期にあって、正教会の守護・維持に努めた日々であった。
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