幽閉から処刑へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/23 07:50 UTC 版)
アタワルパは未だスペイン人が彼の帝国の支配を目論んでいることを信じられなかったので、彼らが探している金銀を与えれば自分を釈放し立ち去ると考え、ピサロにエル・クアルト・デル・レスカテという部屋1杯の金と、銀を2杯提供することに同意した。ピサロは申し出に唖然とさせられたが、皇帝を釈放する意向は全くなかった。それは、ピサロが周辺諸国において秩序を維持するためには現地住民に対する皇帝の支配力を必要としたためでもあり、更にそれ以上にスペインのカルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)の支配の元、アタワルパの宣言によってピサロ自らが帝国全土の総督として君臨することに関してインディオからの正統性の承認を得ることを意図したためであった。 インカ帝国キト守備隊のルミニャウイ(英語版)将軍の保有する兵はスペイン兵をはるかに上回る数であったため、その差し迫っている攻撃を恐れ、数カ月後にスペイン人は、アタワルパにはあまりにも多大な責任があるとし、処刑することを選択した。ピサロは、模擬裁判を行い、皇帝が偶像崇拝を常習としたこと及び実の兄であるワスカルを殺害したことでスペイン人を不快にさせたとして火あぶりによる死刑判決を下した。インカの宗教では、焼死した魂は転生できないとされているため、アタワルパはこの判決に恐怖した。ここでバルベルデ神父が、キリスト教への改宗に同意するなら判決文を変更するように働きかけるとアタワルパに言った。皇帝は洗礼を受けることに同意し、洗礼名フランシスコ・アタワルパを与えられ、キリスト教徒たる彼の要求に従い、焚刑に代えて鉄環絞首刑(ガローテ)となった。遺体は一部焼かれた上でキリスト教の方式により埋葬された。 サパ・インカの位は、彼の死後、傀儡皇帝トゥパック・ワルパに、その後別の弟であるマンコ・インカ・ユパンキ(一説によると、弟ではなく、下級貴族出身[要出典])に引き継がれたが、実質的な権威と権力を持った皇帝としては彼が最後のインカ皇帝である。
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