幽閉と死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/21 06:11 UTC 版)
ムラード・バフシュが叫び声をあげたため、一部の兵卒らが力ずくで中に入ろうとしたが、買収されていた者たちが説得して騒ぎを鎮めた。アウラングゼーブはまだ買収されてない者たちに夜を徹して贈り物を送り続け、その給料の増額を約束したため、そして彼らもまたこういったことがいずれ起こることを察知していたため、翌朝までに騒ぎは収まったという。 そして、7月31日、アウラングゼーブはデリーにおいて即位式を挙げ、ムガル帝国の皇帝となった。 一方、ムラード・バフシュはすぐさまデリーに送還されたのち、サリームガル城へと幽閉され、1659年1月からはグワーリヤル城へと幽閉された。 1661年12月14日、ムラード・バフシュはアウラングゼーブの命によりグワーリヤル城で処刑された。彼の救出計画が露見し、アウラングゼーブがその処刑が必要だと考えるようになったからだった。 ムラード・バフシュの処刑を担当したのは、彼がスーラトを占領して裕福な商人から力ずくで金を取り上げていたとき、殺害した町で裕福なサイイドの息子らであった。サイイドの息子らはムラード・バフシュの首を求め、アウラングゼーブはこれに応じる形で殺害する命令を下し、グワーリヤル城に向かわせたのであった。 こうして、アウラングゼーブは聖なる法の下に正義を執行する形で、ムラード・バフシュを処刑したのである。
※この「幽閉と死」の解説は、「ムラード・バフシュ」の解説の一部です。
「幽閉と死」を含む「ムラード・バフシュ」の記事については、「ムラード・バフシュ」の概要を参照ください。
- 幽閉と死のページへのリンク