平安、鎌倉、室町時代
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陰陽道は、平安時代が最盛期であり、そして室町時代はその繁栄期であったと、愛知学院大学 教授 林淳の著書「近世陰陽道の研究」で述べている。また、陰陽道は平安貴族社会を基盤にして展開されていた呪術的な宗教であり、そして貴族の間に深く広がった理由を、律令制(形法に基づく社会)の神祇祭祀の中に陰陽要素を含む祭祀がすでに数多くあったことが大きいと述べている。代表的な祭祀は、鎮花祭、風神祭、大祓、宮城四隅疫神祭、防解火災祭、螢惑星祭などと述べている。 一方、武家の世界では多くの城で鬼門方位に厠をつくることが常道とされていた、安土城、福知山城、岡山城、姫路城などは裏鬼門に厠が配されていたとされ、鬼神の災いを恐れず覚悟を持った武将の気構えと捉えることができると述べている
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平安・鎌倉・室町時代
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発生は平安時代とされ[要出典]、検非違使の雑用役・戦闘予備員として従軍した「下部」が足軽の原型とされる。鎌倉時代中期頃まで、騎馬武者による一騎討ちを原則としたことから、足軽は従者や運搬などの兵站や土木作業に従事させられることが多かった。 南北朝時代に悪党の活動が活発化し下克上の風潮が流行すると、伝統的な戦闘形態は個人戦から集団戦へと変化し始め、足軽の活躍の場は土一揆・国一揆にも広まった。応仁の乱では足軽集団が奇襲戦力として利用されたが、足軽は忠誠心に乏しく無秩序[独自研究?]でしばしば暴徒化し、多くの社寺、商店等が軒を連ねる京都に跋扈し暴行・略奪をほしいままにすることもあった。 応仁の乱時、東軍の足軽(疾足)300余人が宇治神社を参詣する姿を人々が目撃したものとして、「手には長矛・強弓を持ち、頭には金色の兜や竹の皮の笠、赤毛など派手な被り物をかぶり、冬だというのに平気で肌をあらわにしていた」という。一方で、雲泉太極の『碧山日録』には、「東陣に精兵の徒300人あり、足軽と号す。甲(かぶと)を擐せず、矛をとらず、ただ一剣をもって敵軍に突入す」と記され、兵装に統一性がなかった事がわかる。『真如堂縁起』には、足軽達が真如堂を略奪している姿が描かれているが、兜をつけず、胴具は身につけているものの下半身は褌一枚の者、半裸の者など無頼の姿である。 また、足軽を雇ったのは大名といった武家に限らず、東寺など寺社勢力も自衛のために足軽を雇った。東国では太田道灌が「足軽軍法」という名で活用するが、足軽を直属軍に編成した足軽戦法の祖とされる。
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