帰路 1766年3月-11月
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「モーツァルト家の大旅行」の記事における「帰路 1766年3月-11月」の解説
一家はパリに2か月滞在していた。この期間に彼らは演奏会を開かなかったが、グリムによればヴォルフガングの交響曲が演奏される機会はあったという。グリムは2人の子どもの成長を興奮気味に記している。彼によれば、ナンネルは「ハープシコードを最高の技術と華麗さにより演奏でき」そして「彼女に比肩し得る者は彼女の弟を置いてほかにいなかった。」彼はヴォルフガングに関して、芸術の絶頂にあるカペルマイスターの多くもこの9歳の少年が知っていることを知らないまま死んでいくのだろう、というブランズウィック(Brunswick)の言葉を引用した。「もしこの子どもたちが住んでいたら」と、グリムは続けている。「彼らはザルツブルクには居続けられないだろう。すぐに権力者たちが彼らを誰の下に置くべきかを巡って議論を始めるからである。」 このパリ滞在の間に作曲されたヴォルフガングの楽曲で唯一現存しているのは、彼が初めて挑戦した本式の教会音楽となった『キリエ ヘ長調』K.33である。7月9日、コンデ公ルイ5世ジョゼフの招きを受けた一家はパリを離れてディジョンを訪ねた。そこでは7月19日の演奏会で地元の管弦楽団の伴奏により子どもたちが演奏したが、レオポルトは楽団員に対する蔑みの言葉を残している。「Très mediocre – Un miserable italien detestable – Asini tutti – Un racleur (a scratcher) – Rotten.」次に一家が赴いたリヨンでは、ヴォルフガングが「1時間15分にわたって出来うる限りの熟達により前奏曲を演奏したにもかかわらず、褒美は何もなかった。」 8月6日のハーゲナウアー宛ての手紙にはトリノへ進み、そのまま北イタリアを横切りヴェネチアへ入り、その後チロルを経由して帰宅したいというレオポルトの希望が記されていた。彼は「旅を楽しみ旅を愛する我々は、まっすぐに進む」と書いているが、こう付け加えている。「(略)家に(寄り道せず)帰らねばならないと言ったのだから、約束は守らないといけないな。」一家はスイスを通過する近道を通って8月20日にジェノヴァに到着し、ここでは子どもたちが2度の演奏会を行い、著名な作曲家のアンドレ=エルネスト=モデスト・グレトリの挑戦を受けた。何年も後になってグレトリはこの時の出会いについて記している。「私は彼(ヴォルフガング)に変ホ長調のアレグロを書いてやった。難しい曲だったが演奏してみせてはやらなかった。彼はそれを弾きこなし、私自身を除く誰もがそれは奇跡だと思った。彼は決して間違えることはなかったのだが、転調すると私が書いたパッセージをあちこち別のものに変えて演奏していたのだ。」このようにヴォルフガングが弾きこなせないパッセージに直面すると即興を行ったという主張は、彼を試そうとしてやってきた人々から出た唯一の否定的意見のようである。 旅がスイスを越えて続く中、ローザンヌやチューリッヒでも演奏会が開かれた。ネーデルラント出発後、ヴォルフガングはあまり作曲をしていない。チューリッヒの演奏会のために書かれた『クラヴィーア小品』K.33bと、その後フュルステンベルク家の王子のために書かれた数曲のチェロ作品(散逸)である。その王子は一行が10月20日にドイツ国境のドナウエッシンゲンに至ると彼らを歓待し、約12日間滞在させた。旅を再開した彼らは11月8日にミュンヘンへと到着したが、ここでヴォルフガングが病に倒れたため2週間の足止めを余儀なくされる。しかし、彼は11月22日にはナンネルと共に選帝侯に演奏を披露できるまでに回復していた。数日後にザルツブルクを目指して出発した一家は、1766年11月29日にゲトライデガッセ(英語版)の我が家へと帰り着き、これをもって大旅行は完結した。
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