帰英、ウルジーの推挽
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 09:50 UTC 版)
「トマス・クロムウェル」の記事における「帰英、ウルジーの推挽」の解説
1512年にクロムウェルはイングランドへ帰国し、商業の傍らで仕事上の必要性から法律の勉強を始め、法廷で訴訟を扱い弁護に立ち、法律家として名声を得た。そうしたクロムウェルの法律知識に注目した大法官兼ヨーク大司教(英語版)トマス・ウルジー枢機卿に1516年(または1520年頃)から仕える一方、1519年以前に服屋の娘エリザベス・ウィックス(英語版)と結婚し、長男グレゴリー(英語版)(後のオーカムの初代クロムウェル男爵)をもうけている。法学を学んだ後、1523年にはイングランド議会の議員となって小修道院の調査を行い、翌1524年にはグレイ法曹院のメンバーにも選ばれ、ウルジーの法律顧問として身を置くことになった。 1520年代のウルジーは母校オックスフォード大学と出身地イプスウィッチにそれぞれ新カレッジ(クライスト・チャーチ)とグラマースクールを創設するため、修道院を廃止して財産を捻出することを企て、小修道院を対象にした廃止を主導した。修道院調査委員に登用されたクロムウェルは実務を担当、1524年から1528年にかけて修道院解体任務と事務処理を遂行、行政家・法律家としての手腕を発揮して宮廷からも注目されるようになった。またウルジーからカレッジ建設の実務と管理も任された。 1529年に国王ヘンリー8世と王妃であるキャサリン・オブ・アラゴンとの離婚を実現出来なかったウルジーは失脚、専横が弾劾されるがクロムウェルは擁護し、ヘンリー8世から評価されて騎士(ナイト)に任命され、実務能力を買われたこともあり王に仕え、ウルジー失脚後も王の信頼は深まっていった。同年から1536年まで開かれた宗教改革議会(英語版)で議員として活動する一方、1531年には枢密顧問官に任じられ出世の階段を上り始めた。
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