州憲法および国家憲法の策定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 05:40 UTC 版)
「アメリカ合衆国の独立」の記事における「州憲法および国家憲法の策定」の解説
1776年の夏までに、愛国者は全ての領土と人民を掌握した。王党派は力を持たなかった。全13植民地はそれまでの政府を打倒し、法廷を閉め、イギリスの代理人や知事をその家から追い出した。規制の法体系の外にある代表者会議や「議会」に送る者を選んだ。イギリスから与えられていた勅許に替わる新しい憲法が各邦で求められた。そこは国であり、植民地ではなかった。 1776年1月5日、ニューハンプシャーは最初の州憲法を批准したが、これはアメリカ独立宣言署名の6ヶ月も前のことであった。続いて5月には、大陸会議の決議によりあらゆる形態のイギリスの権力を抑え、土地毎に作られる権力に置き換えられることになった。バージニア、サウスカロライナおよびニュージャージーが7月4日以前にそれぞれの憲法を策定した。ロードアイランドとコネチカットは単純にイギリスの勅許状を採用し、王室に言及するところを削除する方法を採った。 新しい邦々はどのような形態の政府を作るかを決める必要があったばかりでなく、どのようにして憲法を作る者を選ぶか、どのようにしてそれを批准するかを決めなければならなかった。富める者がその過程を支配した邦であるメリーランド、バージニア、デラウェア、ニューヨークおよびマサチューセッツでは、次のような特徴有る憲法ができた。 選挙権については十分な資産があること、被選挙権についてはさらに資産の基準が高いこと。ただし、ニューヨークおよびメリーランドは資産条件を低くした。 二院制とし、上院には下院のチェック機能をもたせたこと。 強い知事、議会に対する拒否権と十分な任命権があること。 政府で複数の地位を占める個人に対して制限が無いか少ないこと。 国家宗教を継続したこと。 それほど裕福でもない者が組織してそれなりの力を持った邦、すなわちペンシルベニア、ニュージャージーおよびニューハンプシャーでは次のような条項のある憲法となった。 白人男性すべての参政権、あるいは選挙権や被選挙権に対する小さな財産資格を定めたこと。ニュージャージーは財産を持つ寡婦にも参政権を与えた。ただし、25年後に撤回された。 強い一院制議会であること。 比較的弱い知事の権力、拒否権無し、任命権も限られたこと。 個人が政府の複数の地位に就くことを禁じたこと。 ある邦の議会で保守派あるいは改革派のどちらが政権を取るかということは、力の無い側が温和しく結果を認めるということを意味するのではなかった。ペンシルベニア憲法の改革的条項はわずか14年間しか続かなかった。1790年、保守派が議会を制すると、新たに憲法制定会議を要求し、憲法を書き換えた。新しい憲法では白人男性の普通選挙を制限し、知事には拒否権を与え、任命権も与えた。また上院を追加して一院制議会の議員よりも被選挙権の資産条件を厳しくした。トマス・ペインはこの憲法をアメリカには相応しくないものと言った。
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