川崎からの離脱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/21 02:37 UTC 版)
国際汽船の立場が決定的に変わるきっかけとなったのが、1927年(昭和2年)の昭和金融恐慌である。大正12年の関東大震災に際して発行された震災手形の処理をめぐって台湾銀行が一時休業し、台湾銀行に依存して事業を展開していた鈴木商店も昭和2年4月4日限りで休業した。恐慌は神戸川崎財閥のメインバンクでもあった十五銀行をも襲って、財閥の主力企業であった川崎造船所は事実上破綻。松方の働きで一時は政府融資を受ける寸前まで話が進んだが、国際汽船の債務問題などが持ち出されて頓挫し、松方は引退を余儀なくされた。ここにいたって国際汽船と川崎造船所との間柄を整理することとなり、双方の債務に関する一切の整理方針が決まった昭和2年8月23日をもって国際汽船は「Kライン」から離脱、赤地に「K」のファンネルマークも捨て去り、12月には国際汽船株が日本興業銀行、第一銀行および十五銀行に譲渡されて、国際汽船は名実とともに川崎の影響から脱することとなった。この間、国際汽船と川崎汽船との間で航路運営に関する覚書が交わされ、両社は以降、基本的にはライバル関係となったが、共同配船などでは提携を行った。もっとも、国際汽船の「Kライン」離脱は、むしろ川崎汽船の航路経営に大きく影響を与えた。船隊や会社人員は大きく減少し、鈴木商店や親会社・川崎造船所の破綻などの関係で経営していた遠洋航路の大半から撤収せざるをえなかった。船舶改善助成施設に関しても川崎造船所が経営再建中だった関係で借り入れが難しかったため、優秀船の導入では立ち遅れた形となった。 銀行団の支配の下、国際汽船は日本郵船副社長の黒川新次郎を社長に迎え入れ、本格的な経営再建に乗り出した。1929年(昭和4年)には、貸付金の償還期限を30年後に延期し、大幅な減資を行う整理案が決まり、資本金は8000万円から一気に2000万円に減少、その差額や積立金を不良資産の処分や繰越損金の帳消しに活用した。また、従来の第一大福丸型貨物船を主体とする船隊を、新鋭のディーゼル船からなる船隊に置き換える方針が採用された。のちの第二次世界大戦で特設艦船や陸軍輸送船として行動した国際汽船のディーゼル船は、このときから整備されたものである。航路の開設も積極的に行い、ヨーロッパ、ニューヨークなどへの定期航路のほか、多くの不定期航路も開設。整備した新鋭ディーゼル船を日本郵船に貸し出すまでになった。
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