川崎で開花したダートへの適性
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「ホクトベガ」の記事における「川崎で開花したダートへの適性」の解説
AJCCで復調したかと思われたホクトベガだが、AJCC以降も5戦して勝利無しとうだつの上がらないレースが続いていた。そんな中、1995年6月13日の川崎で転機が訪れる。同年から中央と地方の交流が盛んに行われるようになり、川崎伝統の牝馬限定重賞・エンプレス杯が当時としては唯一となる牝馬限定の中央・地方全国交流競走として実施されることとなった。中野は「牝馬限定でメンバー的に楽だったこと、そして斤量が55キロとこれも楽だったこと」を理由にホクトベガを出走させることを決定する。なお、このエンプレス杯には同厩のヒシアマゾンも出走登録していたが、こちらは後に登録を取り消している。事前の人気ではホクトベガが1番人気に推され、2番人気は前年のエンプレス杯覇者のケーエフネプチュンでこの2頭が単勝1倍台で人気を分け合い、同年のダイオライト記念優勝馬で南関東最強牝馬と目された3番人気のアクアライデン以下は単勝10倍以上であった。他にも当時7連勝中で地元川崎の期待を集めるマフィン、笠松代表として安藤勝巳を鞍上に送り込んだクラシャトルなど、7頭という少頭数であったが、あわよくば下克上を果たそうと実力上位の牝馬が揃っていた。 初めての川崎、初めてのナイター、雨で水溜りができて田んぼのようになった不良馬場のコンディション、そして中野が「中央のGIホースが地方に乗り込んで、負けたらマズいというぎりぎりの切羽詰まった気持ちで行った」と語るプレッシャーの中、まずまずのスタートを切ったホクトベガは序盤で2番手の好位につけ、向こう正面で持ったまま先頭に立つと1頭だけ別次元のレースを展開。並んでいたケーエフネプチュンを一蹴すると第3コーナーからみるみるうちに差を広げ、終始まったくの馬なりにもかかわらず、2着のアクアライデンに3.6秒差(18馬身差。公式では大差)という観客の度肝を抜く圧巻の走りを見せつけて勝利。4着のマフィン鞍上の山崎尋美に「前のレースの馬が残っているかと思った」と言わしめる圧勝劇で、地方関係者に大きな衝撃を与えた。
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