川島雄三との交流
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 15:52 UTC 版)
「藤本義一 (作家)」の記事における「川島雄三との交流」の解説
川島と離れた後も「僕の師匠は川島雄三」「監督は僕にとって母港みたいな存在」と公言し、尊敬し称賛している。この付き合いを小説にした「生きいそぎの記」は、同じく彼を師匠と尊敬した今村昌平の『サヨナラだけが人生だ』(ノーベル書房)に講談社からの快諾を得て、再版のバージョンにて記載された。 井伏鱒二の原作から取り入れたセリフ「(花に嵐のたとえもあるぞ)サヨナラだけが人生だ」は、主役のフランキー堺のラストシーンにて取り上げられたもので、藤本と川島の映画人生の中でも特筆すべきものである。もともと井伏の『厄除け詩集』に記載されていたものを、藤本と川島は『貸間あり』のクライマックスシーン(桂小金冶)が大阪の下町に向かって“ションベン”するときに用いた。原作者の井伏からは、この『貸間あり』の試写会で「露悪的なシーン」と酷評されたが、川島映画を良く知るファンはこのラストの意味を理解し、「何時までも逃げていく主人公へのともらい」(これは、川島監督そのもの:分身である)と受け止め、映画関係者から「人生足定離」=サヨナラだけが人生だ!として、映画発の「文学的セリフ」として語りつがれることとなった。 藤本が脚本した『とむらい師たち』は、川島をモチーフにした作品であるとも言える。川島が好んで使用した「墓場シーン」(葬式ビジネス)をメイン素材にし、ラスト勝新太郎が現世と来世を彷徨するようなこの映画のクライマックスは、川島の出身である恐山そのものである。
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