岡崎汽船の創業
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明治27年(1894年)、藤吉は一念発起して海運業を起こす事を決意する。ただ破産を経験した藤吉には資金が無かった事から、地元の実業家など、これまでの知己を頼り、苦労の末に無担保で資金を確保する事に成功、その資金で貨物船を購入、更に事務所を神戸に開設して岡崎汽船を創業した。購入した本船は内地と北海道間に投入して、海産物や穀物等の輸送に当たらせた。船の運航については、かつて摂州灘興業株式会社の経営者であった事から、凡その勝手は分かっており、更には同年勃発した日清戦争で、購入した船が御用船として軍に提供された事から、経営は順調に走り出した。その後も、台湾やロシア航路にも航路を開拓して顧客を増やす事に成功する。また、明治37年(1904年)2月に日露戦争が勃発すると、すぐさま貨物船4隻を購入して、創業時に購入した船とともに御用船として軍に提供した。戦争を通じて海運業界も軍需景気に沸き立っており、この好機を生かした事で岡崎財閥の基盤が固まる事になる。 戦後は、船腹過剰により海運市況が反落したが、むしろ不況の時こそ好機と捉えた藤吉は、明治40年(1907年)に政府の補助金が打ち切られて日本郵船が手を引いた、神戸-北海道間西廻航路の一切を引き受け、同航路運営の為に、岡崎汽船を含む関西の海運会社三社による合弁会社を立ち上げた。だが、一年ほどで他の二社が相次いで離脱した為、岡崎汽船単独での運航を、大正6年(1917年)まで凡そ10年間に渡って維持した。その間、明治43年(1910年)3月、岡崎汽船と西廻航路事業の全てを継承する形で、新しい岡崎汽船株式会社を設立した。 また明治40年(1907年)5月、関西の海運会社の社主(その多くが、藤吉同様に地方財閥を形成する事となる)らを取締役に迎え、神戸海上運送火災保険株式会社(現あいおいニッセイ同和損害保険)を設立、不況下においても瞬く間に事業を全国展開していった。
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岡崎汽船の創業
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創業者の岡崎藤吉は、明治10年代後半頃(1880年代前半、20代後半)から幾つかの事業に参画する中で、酒造家が東京の問屋から代金回収するまでの間に資金を融通する金融業に失敗して破産、就任していた役職を全て退いていたが、1894年(明治27年)、一念発起して海運業を起こす決意をする。ただ破産を経験した藤吉には資金がなかったため、地元の実業家などこれまでの知己を頼り、苦労の末に無担保での資金確保に成功、その資金で1,270総トンの貨物船NINGBO号をイギリスから購入して、大洋丸と名付けた。さらに事務所を神戸に開設して岡崎汽船を創業、内地と北海道間に購入した船舶を投入して、海産物や穀物等の輸送に当たらせた。船の運航については、かつて地酒を東京に輸送する海運業に経営者として参画した経験から知悉しており、さらに同年勃発した日清戦争で大洋丸が御用船として軍に提供され、経営は順調に走り出した。戦後は、政府の命もあって、日本の領土となった台湾航路に大洋丸及び他社の船を傭船して配船し、郵便物等の定期輸送に当たった。その後も、1897年(明治30年)から1902年(明治35年)にかけて大洋丸をロシア・カムチャツカの漁期に合わせて貸し出すなど巧みな配船をおこない、また船腹を増やして、確実に荷主を増やしていった。
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