山田の成立と中世
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山田という地名は戦国時代より見え、薩摩国東郷のうちであった。戦国時代には東郷氏と島津氏の抗争が激しく、文明17年(1485年)に東郷氏の東郷重理は白男川(現在のさつま町白男川)にある栗脇城に陣し、泊野川を挟み島津忠廉と対戦し東郷重理は敗れ、当地にあった山田城に陣した。その後島津忠廉は追撃して来たが、激戦の後忠廉は敗れ帖佐(現在の姶良市)に引き揚げた。
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山田の成立と中世
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山田という地名は鎌倉時代より見え、薩摩国谿山郡のうちであった。1276年(建治2年)の山田忠真譲状案には「たにやまのこほりのうちやまたのむらならひにきたのへふ」とあり、次男の山田宗久に当村の地頭職を譲渡されたとある。同時に宇宿郷(現在の宇宿)が三男山田直久に譲渡された。 南北朝時代に征西将軍宮懐良親王によって皇立寺が創建され、懐良親王が没したのちに領主の谷山忠高は無外円照に帰依して円照を開山として皇徳寺を創建した。江戸時代になると寺領100石を有しており、七堂伽藍を備えた大寺となった。江戸時代の薩摩藩の地誌である三国名勝図会によれば皇徳寺について以下のように記している。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}永谷山皇徳寺 山田村にあり、能州總持寺の末にして、曹洞宗なり、本尊釋迦如來、開山無外圓照和尚、開基の施主佛心大禅伯、由來記を按ずるに、菊池肥後守武光、後醍醐帝の皇子世良親王を肥後國に請下し、征西将軍の宮と仰ぎ奉り、武威を西海の諸州に振はむとす、正慶年中、親王本邦に來り給ひ、見寄原要害の地なるを以て、行館を搆へておはしけり、武光も見寄原の近地に壘壁を營み、親王を守護せり、さて親王の命によりて、見寄原のほとりにして、諏方社を建立し、又梵刹を創建して、皇立寺と名付け、國土の静謐を祈る、親王薨じ給ひて、翌年の春、光巖帝齋藤若狭守藤原實直をして、宣旨を下し給ひ、親王の位牌を皇立寺に安置し、菩提寺に定めらる、其後至徳年中に至り無外和尚親王の遺跡を慕ふて來り、此地を相して、梵刹を起んと欲す、時に谷山の郡司、右馬助平忠高入道、佛心無外和尚に歸依し、皇立寺をこゝに移し、七堂の伽藍を再興して、號を皇徳寺と改め、無外和尚を請待し、開山とすといふ、當寺に、古雲板あり、其背に銘を彫て云、薩州谷山郡永谷山常住、正平廿一年、丙牛、姑洗望日、大工浄法と、正平は南朝の年號にして、廿一年は、北朝の貞治五年に當る、由來記に、再興といへる、至徳の元年よりは、十八九年前なり、然れば永谷山の號は、此時既にあり、慶長中、一唯世子の霊牌を安置し、田地を寄附して、世子の菩提寺となし給ふ、寺領禄百石、 —三国名勝図会 また、室町時代のものであるとされる、村内の田畑を寺社に寄進していたことに関する史料が多く現存しており、村内にあった皇徳寺や、現在の鹿児島市立鹿児島玉龍中学校・高等学校付近にあった福昌寺などへの寄進があったとされる。
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山田の成立と中世
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山田という地名は鎌倉時代より見える地名であり、薩摩国日置北郷、日置庄のうちであった。元亨4年に日置北郷で下地中分が行われ、南方は地頭分、北方は領家分とされた。
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