居住状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/03/02 01:44 UTC 版)
19世紀半ばには家族全員が一部屋の中で暮らしていた。そんな居住条件の感覚は、ブランタイア(Blantyre)のデイヴィッド・リヴィングストン・センター(David Livingstone Centre)を訪れることでいくらか掴むことができる。ニュー・ラナークを設立したデヴィッド・デイルも、ブランタイアの工場に関わりを持っていた。ブランタイアには居住ブロック(tenement row)が一棟だけ現存しており、博物館として使われている。博物館は専ら1813年にブランタイアで生まれたデイヴィッド・リヴィングストンに捧げられたものではあるが、子供用の脚輪付きベッドなども含めて一部屋での居住状況が再現されているのだ。この状況はリヴィングストンも知っていたものであり、ニュー・ラナークにも見出されていたものである。デヴィッド・リヴィングストン・センターは、ニュー・ラナークからは道沿いに 30 km ほどのところにあり、グラスゴーとハミルトン(Hamilton)の間にあたっている。 ニュー・ラナークでの生活状況は次第に改善していき、20世紀初頭までには複数の部屋に住まうようになっていた。1933年までは室内に給水栓や流し台は備わっていなかったが、その年を境に屋外にあった共用トイレも室内のものに取って代わられた。 1898年からは村の経営者は全戸に無料の電力供給を行うようになったが、それは各部屋の蛍光灯一本を点けるのにやっとだった上、毎晩10時には切れた(土曜のみは11時まで)。1955年にニュー・ラナークは英国の送電網(National Grid)に接続された。
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居住状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 09:16 UTC 版)
1980年代末から1990年代に来日したニューカマーの多くは大都市の中心部に居住する傾向があった。日本語や専門知識・技術の習得などを目的とした就学生や留学生が全体の半分以上を占めていたのと、特に就学生、留学生が激増した1980年代後半に、日本語学校や専門学校などが多く立地する東京都新宿区大久保や豊島区池袋周辺に多く居住した。併せて、アルバイトの見つけやすさとも密接な関係があり、都心に近い低廉な賃貸住宅がニューカマーの居住場所として好まれた。 1990年代後半になると、ニューカマーの増加に伴い、低廉な賃貸住宅の不足、都市中心部の物価高などの要因も加わって、ニューカマーの居住地は鉄道に沿って近郊へ分散していった。東京方面では隅田川以東の各区と千葉県のJR京葉線沿い、埼玉県ではJR埼京線、JR京浜東北線沿い、神奈川県ではJR東海道線、東急東横線沿いに、それぞれニューカマーの居住地が進展していった。 山下清海は、川口芝園団地(芝園町 (川口市)#外国人人口参照)に華人ニューカマーの集住化が発生していることを指摘するとともに、パリのチャイナタウンがパリ13区の高層マンション群を中心に形成されていることとの類似性を指摘している。
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