小野小町伝説
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房住山には小野小町の伝説が残されている。小野小町が眼病の回復を願いにやってきたとするものと、肌荒れの回復を願って、房住山の山頂に鎮座する瘡地蔵を拝みに来たという伝説がそれである。小野小町は二段の滝で身を清めてから入山したものの高齢の小町にとって房住山の山道は険しく、どちらの説でも途中で引き返している。眼病祈願説では足元から清水が湧いてきて、その清水で目を洗ったら病気が治ったとされ、そこで湧いた水の支流が、現在の下岩川地域の小町の清水とされる。皮膚病祈願説は、登頂を断念したのち遠くから瘡地蔵を拝んだ。小野小町が留まっていたとされる滝ノ上地域には小野姓が多い。また、上岩川地区には小町地区がある。 上岩川地区の鬼首山神社(岩川神社)には、『鬼首山縁起』という神社の由来を記した文書が残されている。 桓武天皇の時代に、勢州鈴鹿山に大長丸(大嶽丸)という賊がいた。その賊を討伐しようとして、坂上田村麻呂が鈴鹿山から秋田の赤神山に追い出して討伐した。その首をこの地に埋め、鬼首山権現とし、三神(高皇産霊尊、経津主神、高皇産霊神)を勧請した。その後、仁明天皇の時代に、小野小町が房住山に参詣しようとしたものの、房住山は高山のために当社を仮に坊主山として毎日参拝しようとした。しかし、ここは周囲に水が無く、口をすすぐ浄水もない。小野小町が天地に祈るとたちまちにして岩の間から清水がしきりにあふれて、何ヶ月もの干ばつの時でも水の増減がない。その水は川に流れ、川は舟がなければ渡れない程になっていた。小野小町は和歌を書いた短冊やその他の品を奉納し、その坊主山に薬師如来を安置した。その後年月が流れ、四条天皇の時の天福元年(1233年)8月21日の夜に、火事が発生し全ての品が灰燼と化してしまった。 菅江真澄は文化3年(1806年)に、小町村を訪れその記録を「かすむ月星」に記している。 小町村に来た。ここの由来は3年前に詳しく書いたことがある。小野小町のゆかりのある小町清水がたいそう清らかに岩川の東の岸に落ちていた。鬼首山権現の森の桜もようやく咲いている。 菅江真澄が書いたとされる「小野村の由来」とは『小町の寒泉』だと考えられるが、これは明徳館に収められた菅江真澄の書物の中では唯一の未発見本となっている。また『花の真寒泉』(1823年、文政6年)では次のように記録している。 山本ノ郡上岩河ノ荘に小町村あり。其岩川の河岸に寒泉あり、小町の清水といふ。いにしへ小野小町としいといと老いて、雄勝の郡小野の八十嶋に在りて、河北の渟代(能代)の南の奥が奥なる、日高山に連(つらら)ぐ坊場(ぼんじゃう)の大日如来をまうでまく此処(ここ)までは来れど、老て身のくるしければ、ここに手あらひ身もきよまはりて、ふしをがみけるとなん語り伝ふ。 『月の出羽路仙北郡』(1826年、文政9年)では秋田県横手市上境館の専光寺の縁起に加えて次のように記録している。 また説話(あるものがたり)に、小野小町身いたく老て関寺のあたりに吟ありきしが、故郷さすがになづかしくや思ひたりけむ、出羽ノ国に入り来て、檜山ノ郷河北(かわきた)の(川北は今いふ山本ノ郡也)荘岩川といふ流に泝(さかのほり)て、梵場が嶽に攀登(よぢのぼ)らまくおもへど老て身に力なければ、すべなう泉に手あらひ口そそぎ、麓に立てふし拝(をがみ)ぬといへり。其泉を小町の清水とも云ひ、そこを小町村とてなほあり。 錦仁は『浮遊する小野小町』で、これらの記録を考察し、『花の真寒泉』では「~となん語り伝ふ」とあるので「雄勝郡から房住山を参拝するためにやってきた」という話は真澄が村人の話を採録したと見て良いとしている。しかし、雄勝の村々に小町ゆかりの遺跡が多数あることを理由として、雄勝が小町の生没地であることが真澄の結論であろうとしている。つまり、小町は雄勝郡に生まれ、宮城県玉造郡で成長し、都にのぼって活躍したが、やがて年老いて都を去ることになり、はるばる都から歩いてきて、まず山本郡に立ち寄り房住山を遥拝し、そして雄勝郡に帰ってきて村はずれの岩屋で乞食をしていたが、やがて没したということが真澄の結論だとしている。
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