小田良古墳とは? わかりやすく解説

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小田良古墳

名称: 小田良古墳
ふりがな おだらこふん
種別 史跡
種別2:
都道府県 熊本県
市区町村 宇土郡三角町
管理団体
指定年月日 1979.10.23(昭和54.10.23)
指定基準 史1
特別指定年月日
追加指定年月日
解説文: S54-6-045小田良古墳.txt: 有明海八代湾を南北へだてて宇土半島が西に突出している。小田良古墳は、この宇土半島北岸海岸近くせまった低い丘陵先端部に営まれ古墳である。この古墳は径20メートルくらいの円墳であったとみられるが、既に封土大半失い石室附近石室用材積まれていて「珍韓さん」と俗称されていたものである。昭和52年、[[三角]みすみ]町教育委員会実施した予備的調査装飾古墳であることが判明し53年に同町教育委員会本格的な調査行ったのである
 古墳上は海抜7.2メートル畑地となっていて、畑地石室周りの石障上縁見え程度まで封土を削土されていた。石障は4面残り東西1.9メートル南北1.85メートル内部の礫床までの高さは0.65メートル測る。この石障は砂岩整形したもので厚さは8センチメートルである。石障の内側東西方向の2列の仕切り石で区切り南北西側2区の屍床を設け、その底面にこぶし大の丸石をしいている。屍床の間中央通路は屍床より若干低くなる。この石障の周囲には石室の壁の積石残っている部分がある。そしてその石室東西3.5メートル南北3.2メートル土壙をほりこんで構築したのである石室入口西向きとみられ、石障の西側V字形のくりこみがされている。また2列の仕切り中央部にも浅いV字形のくりこみみられる
 石障の4面には彫刻彩色による装飾施されている。装飾北側に円文4、奥壁側の東側に円文3・靱2・2、南側に円文3西側に円文2があり、いずれも本の横線内に納められている。円文は直径1718センチメートル中心孔がえぐられ上下に2本の紐状の表現がある。には文様施されている。また全体塗布されとみられる赤彩があるが残存状況よくない
 出土遺物としては、人骨片・刀子・小玉・鈴等がある。この古墳構築状況装飾文様出土遺物からみて史跡千金甲古墳甲号に近いものとみられ、6世紀初め前後する時期営まれたものとみられている。
 熊本県下には装飾古墳集中する所があるが、宇土半島ではこれまで知られていなかった。本古墳装飾写実性があり石障系のものとして特色の多いものであり、重要なのであるので指定して保存を図るものである
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小田良古墳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/09/24 07:14 UTC 版)

小田良古墳
所在地 熊本県宇城市三角町中村4985-6
位置 北緯32度38分57秒 東経130度29分37秒 / 北緯32.64917度 東経130.49361度 / 32.64917; 130.49361座標: 北緯32度38分57秒 東経130度29分37秒 / 北緯32.64917度 東経130.49361度 / 32.64917; 130.49361
形状 円墳の可能性
規模 径20メートル(推定)
出土品 人骨片・刀子・小玉・鈴等
築造時期 6世紀初期頃
史跡 国指定史跡
地図
小田良古墳
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小田良古墳(おだらこふん)は、熊本県宇城市三角町にある古墳。1979年(昭和54年)10月23日、国の史跡に指定された。

概要

小田良古墳は、この宇土半島の北岸の海岸近くせまった低い丘陵の先端部に営まれた古墳である。この古墳は径20メートルくらいの円墳であったとみられるが、既に封土の大半を失い、石室附近に石室用材が積まれていて「珍韓さん」と俗称されていたものである。1977年(昭和52年)、三角町教育委員会が実施した予備的調査で装飾古墳であることが判明し、1978年(昭和53年)に同町教育委員会が本格的な調査を行った[1]

古墳上は海抜7.2メートルの畑地となっていて、畑地に石室周りの石障上縁が見える程度まで封土を削土されていた。石障は4面が残り、東西1.9メートル、南北1.85メートルで内部の礫床までの高さは0.65メートルを測る[1]。この石障は砂岩を整形したもので厚さは8センチメートルである。石障の内側を東西方向の2列の仕切り石で区切り、南北西側に2区の屍床を設け、その底面にこぶし大の丸石をしいている。屍床の間の中央通路は屍床より若干低くなる。この石障の周囲には石室の壁の積石が残っている部分がある[1]。そしてその石室は東西3.5メートル、南北3.2メートルの土壙をほりこんで構築したものである。石室の入口は西向きとみられ、石障の西側にV字形のくりこみがされている。また2列の仕切り石中央部にも浅いV字形のくりこみがみられる[1]

石障の4面には彫刻と彩色による装飾が施されている[1]。装飾は北側に円文4、奥壁側の東側に円文3・靱2・楯2、南側に円文3・西側に円文2があり、いずれも2本の横線内に納められている。円文は直径17〜18センチメートルで中心孔がえぐられ、上下に2本の紐状の表現がある[1]。楯には文様が施されている。また全体に塗布されたとみられる赤彩があるが残存状況はよくない。出土遺物としては、人骨片・刀子・小玉・鈴等がある。この古墳は構築状況や装飾文様、出土遺物からみて史跡千金甲古墳甲号に近いものとみられ、6世紀初めを前後する時期に営まれたものとみられている[1]

熊本県下には装飾古墳が集中する所があるが、宇土半島ではこれまで知られていなかった。本古墳の装飾は写実性があり石障系のものとして特色の多いものであり、重要なものである[1]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h 国指定文化財等データベース”. kunishitei.bunka.go.jp. 文化庁. 2021年1月31日閲覧。


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