小中華(小華)の理念
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小華(小中華)とは明から冊封を受けていた『朝鮮(李氏朝鮮)』が、天朝と呼んでいた明王朝の『中華』に対し、自らを支の国として『小華』を自称したことに始まる。 司馬遼太郎は著書『この国のかたち』の中で、朝鮮王朝は「中国に在(いま)す皇帝をもって本家とし、朝鮮王家は分家であるという礼をとった。地理的には蕃(蛮地)であっても、思想的には儒教であるため、大いなる華の一部をなすという考え方による」と記す。さらに「李氏朝鮮では中国(明)のことを『天朝』と呼んで尊んだ。中国皇帝が天命によって地上を支配する唯一人であるがために、支の国としてそうよぶのが『礼』であった」と説明している。 さらに司馬遼太郎は同書の中で、「近代以前、華(中国)を中心に「冊封」という国際秩序があり、李氏朝鮮は明から冊封をうけていた。例えば朝鮮の太祖である李成桂(1335~1408)は、1392年7月に王位につくと、同年11月に明に使いを出して国号の『朝鮮』を選んで貰った行為など(もう1つに『和寧』案があった)は、典型的な『冊封』の形とされる」であると説明する。さらに「朝鮮では明の年号を使用するとともに、両国は儒教という思想を共有し、祭典もまた朝鮮は明の礼制に合わせた。朝鮮固有のシャーマニズムを淫祠とし、また廃仏毀釈(仏教弾圧)をおこなって、儒教の優位性を高め、観念の上では中国以上の儒教国家となった」とし、「やがて本流である中国の「中華」に対し、支の国として『小華(小中華)』と称するようになる」と同書の中で述べる。そして「小華である以上、その徳に服する蛮(蕃)が必要となる。このため他の国々(日本や琉球や満州の一部など)が(思想的に)それらに当て嵌められた」と関係性を述べ、「この理(空論)によって日本は蕃国(野蛮国)とされた。ただ朝鮮という華に朝貢してこないのは、日本がそれだけ無知だったという形式論になった」と説明する。 さらに司馬遼太郎は著書『韓のくに紀行』の中で、「儒教というものは、日本にあっては紙で木版画印刷された書物というかたちをとりつづけてきたが、中国ではもっとおそるべきものである」と記す。それは「漢以来、(儒教が)統治の原理であり、多分に体制そのものであり、これを統治させるものからいえば人間関係の唯一の原則で、人間であるかぎりこれ以外の習俗はない」と儒教思想とその体制のありようを説明する。そして「李朝五百年間、中国的儒教体制の模範生であった朝鮮は、中国の歴代王朝から、『東方儀礼ノ国』とほめられつづけたように、習俗として礼教を重んじつづけてきた。むろんそれは形式主義であってもかわまない。むしろ形式主義こそ国家と人間の秩序にもっとも大切な物だというのが、儒教的な思考法である」と書き述べている。 また朝鮮の礼について司馬遼太郎は著書『この国のかたち』のなかで、朝鮮は「華の国である明にたいして、『事大』の礼をとり、明を天朝と呼んだ。事大とは大に事(つか)えるということで、後にその語感のわるさが民族的自尊心をわるく刺激したが、当時は事大こそが礼教に適うとされた」とする。『事大』の典拠について、司馬遼太郎は「孟子に、小国は大国に事(つか)えるほうがいい(小ヲ以テ大ニ事エル者ハ天ヲ畏ルル者ナリ)」をあげている。 さらに司馬遼太郎は同書の中で「朝鮮王朝(李氏朝鮮)が儒教を国教とするの14世紀末のことで、16世紀には李退渓が現れ、朝鮮朱子学が確立された」「朝鮮は『東方儀礼ノ国』などと言われたが、この儀礼とは儒教イデオロギーをさす」と記している。
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