宿を勧める女
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/23 15:25 UTC 版)
従者(ワキ)は、所の者(アイ)に道案内を頼み、一同は山道を進むが、やがて日が異様に早く暮れかけることに気付き、途方に暮れる。そこに、女(前シテ)が現れ、一夜の宿を申し出る。女は、百ま山姥の一行と察しており、山姥の曲舞を謡ってほしいと所望する。そして、山に住む女を山姥というのなら、私こそ山姥ではないかと言い、私の身を弔ってほしいと、曲舞を所望する理由を述べる。 女(前シテ)は、深井(ふかい)(または近江女、霊女(りょうのおんな))の面、鬘を着け、装束は無紅(いろなし)唐織、扇を持った里女出立である。 ワキ「あら不思議や。暮るまじき日にて候ふが俄(にわか)に暮れて候ふよ。扨(さて)何と仕り候ふべき。シテ〽のうのう旅人御宿(おやど)参らせうのう。「是はあげろの山とて人里遠き所なり。日の暮れて候へば。わらはが庵(いおり)にて一夜を明かさせ給ひ候へ。ワキ「あら嬉しや候(ぞうろ)ふ。俄に日の暮れ前後を忘(ぼう)じて候ふ。やがて参らうずるにて候ふ。シテ〽今宵の御宿(おやど)参らする事。とりわき思ふ子細あり。「山姥の歌の一節うたひて聞かさせ給へ。年月(としつき)の望(のぞみ)なり。鄙(ひな)の思出と思ふべし。〽其為(そのた)めにこそ日を暮らし。御宿(おんやど)をも参らせて候へ。いかさまにも謡はせ給ひ候へ。ワキ「是は思ひもよらぬ事を承り候ふ物かな。扨誰と見申されて。山姥の歌の一節とは御所望候ふぞ。シテ「いや何をか包み給ふらん。あれにまします御事(おんこと)は。百ま山姥とてかくれなき遊女にてはましまさずや。まづ此歌の次第(しだい)とやらんに。〽よし足引(あしびき)の山姥が、山めぐりすると作られたり。あら面白や候(ぞうろ)ふ。「是は曲舞に依りての異名(いみょう)。さて誠の山姥をば。如何なる物とか知ろしめされて候ふぞ。ワキ「山姥とは山に住む鬼女(きじょ)とこそ曲舞にも見えて候へ。シテ「鬼女とは女の鬼とや。よし鬼なりとも人なりとも。山に住む女ならば。妾(わらわ)が身の上にてはさむらはずや。〽年頃色にはいださせ給ふ。言の葉草(ぐさ)の露ほども。御(おん)心にはかけ給はぬ。「恨み申しに来りけり。〽道を極め名を立てて。世情万徳の妙花を開く事。此一曲(いっきょく)の故ならずや。然らば妾(わらわ)が身をも弔らひ。舞歌(ぶが)音楽の妙音の。声仏事(ぶつじ)をもなし給はば。などか妾も輪廻をのがれ。帰性(きしょう)の善所(ぜんしょ)に至らざらんと。恨みを夕山(ゆうやま)の。鳥獣(とりけだもの)も鳴きそへて。声をあげろの山姥が。霊鬼(れいき)是まで来りたり。 [従者]ああ不思議だ。暮れるはずもない日中なのですが、急に日が暮れてきました。さてどうしたものでしょうか。[女]もし、旅のお方、お宿に泊まらせて差し上げましょう。これは上路山といって、人里遠い所です。日が暮れてきましたので、私の庵で一夜をお明かしなさいませ。[従者]ああ、嬉しいことです。急に日が暮れ、途方に暮れていたところです。すぐに参ることにしましょう。[女]今夜、お宿を貸し申し上げたのには、格別の理由があります。山姥の歌の一節を謡って聞かせてください。年来の望みなのです。そうすれば田舎暮らしの思い出となるでしょう。そのためにこそ日を暮れさせ、お宿を貸し申し上げたのです。ぜひとも謡ってください。[従者]これは思いもよらぬことを伺うものです。我々を誰とお思いになって、山姥の歌の一節を謡ってほしいと御所望になっているのですか。[女]いや、何をお隠しになるのですか。あちらにいらっしゃるお方は、百ま山姥といって、世に知られた曲舞の舞手ではいらっしゃいませんか。まずこの曲舞の次第とかいうところ(謡い出し)に、「よしあしびきの(善悪に迷い、足を引きずっている)山姥が、山めぐりする」と謡われています。ああ面白いことです。百ま山姥というのは曲舞に基づいた異名でしょう。さて本当の山姥はどのようなものか、ご存知でいらっしゃいますか。[従者]山姥というのは、山に住む鬼女のことだと、曲舞にも謡われています。[女]鬼女というと女の鬼ということですか。たとえ鬼であっても人であっても、山に住む女を山姥というのであれば、私の境遇のことではありませんか。(百ま山姥が)長年の間、歌の言葉では山姥のことを口にしておられながら、真の山姥のことは露ほども心にかけてくださらない。その恨みを申し上げに来たのです。曲舞の道を極め、名声を得て、この世の栄光を集めることができたのも、この曲舞の一曲のおかげではありませんか。そうであれば私の身を弔ってくださり、舞歌音楽の声をもって手向けてくだされば、私も輪廻の苦しみを逃れ、鬼性の身も帰性(悟り)を得て善所(極楽)に赴くことができるでしょう。……と、恨みを言うと、鳥獣も同調して声を上げる。上路山の山姥である霊鬼がここまで来たのだった。
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