家族背景と少年時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 06:15 UTC 版)
「ベドルジハ・スメタナ」の記事における「家族背景と少年時代」の解説
ベドルジハ・スメタナは1824年3月2日、ボヘミア北部、現在のパルドゥビツェ州に位置する都市リトミシュルで生まれた。リトミシュルはプラハの東に位置し、ボヘミアとモラヴィアの歴史的境界の近い町で、当時はオーストリア帝国(ハプスブルク君主国)領であった。父はフランチシェック・スメタナ(1777-1857)で、母はフランチシェックの3番目の妻であるバルボラ・リンコヴァーである。ベドルジハは、フランチシェックとバルボラの間の3番目の子供で長男であった。フランチシェックには、前の2人の妻との間に8人の子供がおり、内5人の娘が幼少期を生き残っている。フランチシェックとバルボラは10人以上の子供をもうけており、内7人が成人になっている。この地域を治めるハプスブルク家の敷いた制度により、ドイツ語がボヘミアの公用語であった。この社会的な理由と仕事の関係から、フランチシェックはチェコ語を話すことができたものの、生活においてはドイツ語を使用していた。そのため、彼の子供達は、かなり年を取るまで正式なチェコ語を知らないままであった。 元々スメタナの一族は、ボヘミアのフラデツ・クラーロヴェーに居住しており、フランチシェックの代にリトミシュルへと移住している。フランチシェックは、最初ビールの醸造業者の商取引を学び、ナポレオン戦争中にフランス帝国軍に衣類と食糧を供給することによって、中流階級の富を獲得した。その後、1823年にリトミシュルに移る前まで、彼はいくつかのビール醸造業者の経営を行っていた。リトミシュルには、当地をリトミシュル城を中心に治めていた、ヴァルトシュタイン伯のビール醸造者として移っている。 フランチシェックは、若い頃に少しばかりヴァイオリンを習った程度であったが、音楽に関しては才能が有り、仕事を終えた直後に友人たちと一緒に弦楽四重奏を演奏することを楽しんでいた程の音楽好きであった。ベドルジハは、父の影響から早くに音楽に触れたこともあって、幼少期から音楽的才能を開花させ、早い時期からヴァイオリンを学んでいる。スメタナも父と友人たちとの演奏に参加しており、弦楽四重奏曲などを演奏していた。のちにピアノも本格的に習って上達し、ヴァイオリンよりもピアノの方を気に入ったという。1830年、6歳の時に、ベドルジハは公の場で演奏している。このコンサートはリトミシュルの哲学学校で行われ、ベドルジハはフランソワ・オーベールのオペラ『ポルティチの唖娘』の序曲のピアノ編曲版を演奏し、好評を得た。なおヴァイオリンを習っている際、即興でワルツを弾き教師が書きとったものがスメタナの最初の作品であるとされている。1831年にフランチシェックがチェルニン伯に仕えることとなり、スメタナ一家はリトミシュルからボヘミア南部のインドジフーフ・フラデツ(英語版、チェコ語版)へ移る。当地は、グスタフ・マーラーの出身地であるイフラヴァの南西50kmほどにある小さな町である。スメタナは、この地で小学校に通い、その後ギムナジウムに入学した。またこれと並行して音楽教育も受けており、ヴァイオリンとピアノを学んでいる。また、ヴァイオリニストでオルガニストのフランチシェック・イカヴェッツ(1800-1860)に作曲を習い、1832年(当時8歳)には『ギャロップ』と題されたニ長調の短い小品を作曲している。同曲はスケッチの形で現存している。 1835年に、父・フランチシェックが第一線から退き、ボヘミアの南東地域の農場へと移る。そこには適当な学校が無かったため、スメタナはイフラヴァのギムナジウムに通うようになる。しかしホームシックとなり、勉強を行うことができなくなってしまった。そのため、1836年にニェメツキー・ブロト(現ハヴリーチュクーフ・ブロト(英語版、チェコ語版))のカトリック修道会・Premonstratensianの学校に再度転校している。この学校ではホームシックに苦しむこともなく、幸せな少年期を過ごしている。この地で友人となった者の中には、後にチェコの進歩派の作家となるカレル・ハヴリーチェク・ボロフスキーがいる。ハヴリーチェクは、1838年にカレル大学へと進学しプラハへ転居した。
※この「家族背景と少年時代」の解説は、「ベドルジハ・スメタナ」の解説の一部です。
「家族背景と少年時代」を含む「ベドルジハ・スメタナ」の記事については、「ベドルジハ・スメタナ」の概要を参照ください。
- 家族背景と少年時代のページへのリンク