宗教的象徴性
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/06 09:25 UTC 版)
イギリスのパーリ語研究者であるトーマス・ウィリアム・リス・デイヴィッズは、西洋における上座部仏教の最初期の、そして最も精力的な普及者である。1878年に、彼は上座部仏教に対する北の競争相手について書いている: ラマ教は、ラマ僧、鐘、ロザリオ(数珠)、図画、聖水、僧正、修道院長、各階層の修道僧、お祭りの日、告解と煉獄、二人の処女に対する信仰とともに、ローマ・カトリック教会に非常によく似ているために、最初カトリックの宣教師たちはキリスト教を悪魔が模倣したのだと考えた。 ロザリオ(数珠)の使用は、ムスリムのロザリオ、ミスバハを通じて十字軍の時代にインドから西ヨーロッパに広まったという説がある。しかし、別経路で広まったと主張するものもいる。コンボスキニオンの形式は東方のキリスト教国でより先に広まっていた。そのため、ムスリムのミスバハはキリスト教に由来すると主張されている[要出典]。仏教の慣習では、数珠は、ブッダの徳の数、あるいは悟りを得るために打ち勝たなければならない罪の数に合わせて108個のビーズを持つことになっている。 アニュジャリ・ムドラーという両手を合わせる祈り方は仏教を含むインドの全ての宗派で一般的な挨拶・祈りの仕草の様式である。ユダヤ教の慣習にはこれはなく、旧約聖書には手を上げるか手を握り締めることが書かれている。しかし、手を他の人と握り合う祈りは、中世以降になってキリスト教芸術に現れる。であるが、キリスト教のこの祈り方の、歴史的により直接的な起源は中世の表彰式にあると考えられている。そういった儀式的な式典は実際には宗教的ではなく、むしろ主人と配下の社会的な契約を締結するための物であった[要出典]。 1921年、仏教学者で外交官のチャールズ・エリオットは、キリスト教の慣習とそれに対応する仏教の慣習との間の明らかな類似点について書き、両者の伝統が独立でないという説を支持した: 全ての差引が同じ原因と一致のために作られたなら、聖職者の禁欲、告解、遺骸の崇拝、ロザリオや鐘の使用といった慣習は二つの宗教でそれぞれ独立に生まれたことになる。 今日のある宗教間対話で、偉大な上座部仏教思想家のプッタタートは仏教の中核的な思想のアナッター、つまり無我を思い起こして、個人的に十字架と結びつけて考え、I(英語の一人称)を二つ交差させた無我を意味するものであると十字架を再解釈していることを報告している。
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