宗教的風土
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/21 02:28 UTC 版)
7世紀頃まで、ヒジャーズ周辺やイエメンなどではユダヤ教やキリスト教を信奉するアラブ人や部族が多数あったが、この時代のアラブ社会では、なおもフバル(英語版)やウッザー、アッラート、マナートに代表されるアラビア神話の偶像崇拝や多神教が一般的であり、部族ごとに信仰する神々の像や祠が営まれ、半島各地に点在していた。これらの神々の託宣を行うカーヒン(巫者)や占星術師たちも多くおり、アラブの諸部族はこれらの祠や巡礼地を後援し、管理する部族、氏族がいた。さらには聖地への巡礼などではそれらの地域を支配する部族によって経済的・社会的な地位を得ていた。 イスラーム以前のメッカ周辺ではアラブの諸部族でおのおの信仰する神を崇めていた。例えばメッカの場合、イブン・イスハークの『預言者ムハンマド伝(Sīrat al-Rasūl Allāh)』やタバリーの『諸使徒と諸王の歴史』などによると、クライシュ族はカアバ内部の井戸のそばにあったフバル(Hubal)を祀っていたことが知られている。ザムザムの井戸の側にはイサーフ(Isāf)とナーイラ(Nā'ila)という像があり、犠牲を捧げていたという。ナフラにはクライシュ族とキナーナ族が崇めていたウッザー(al-`Uzzā)が祀られていた。アウス族やハズラジュ族などには海岸部のクダイトの地にマナート(Manāt)があり、サキーフ族にはターイフにアッラート(al-Lāt)を祀っていた。現在の半島北部のジャウフ州にはカルブ族がワッド(Wadd/Wudd)を祀り、イエメンのハムダーン族の一部はハムダーンにヤウーク(Ya`ūq)を祀り、ヒムヤル族の一部もヒムヤルの地にナスル(Nasr)を祀り、という具合に、それぞれに守護する神々がおり、またその祠を管理する部族や氏族がいた。 メッカのカアバは、遠く人類の始祖アーダム(アダム)に由来するとも伝えられているが、イブラーヒーム(アブラハム)が建立し、アラブ族の始祖イスマーイール(イシュマエル)とその子孫によって代々管理されて来た、という伝承を持っていた。伝承によると、ムハンマドの6世の父祖クサイイの時代にメッカの支配権とカアバの管理権をクライシュ族が掌握し、代々クライシュの一門の当主たちが合議によって統治と管理がされて来たという。特にカアバへの巡礼者の飲食と宿泊所を振る舞うことがクライシュ族の美徳として重んじられていたという。また、ムハンマドの時代にはカアバの建物の中には360個の神の偶像が祀られていたという。カアバの管理はクライシュ族のアッラーフもアラブのパンテオンの一角を占める重要な神であったが、ムハンマドはこれを唯一の神とし、他を神として実在しないものとして排斥したことが、当時のアラブの信仰において大きな特徴であった。 イブン・イスハークなどが記録するイスラームの伝承によれば、イブラーヒームやイスマーイールが礼拝を行っていた時代は偶像は用いられていなかったが、後世になって巡礼によって聖域を敬う気持ちから、聖域の石等を持ち帰りその石などを代わりに巡って崇拝の対象とするようになったため、アラブに偶像崇拝が生じた、という説話が伝えられている。また、イスマーイールの16世の子孫アムル・ブン・ルアイイが、イスマーイールの宗教を歪め偶像を祀るようになった、という話を預言者ムハンマドがしたというハディースも伝えられている。 また、暦についても、現在のヒジュラ暦は1年を355日とする完全な太陰暦であるが、ジャーヒリーヤ時代は暦調整人ナサア(النسأة al-Nasa'a )によって閏月を設けるなどして太陽暦との調整が行われていた。巡礼時期の前後に神聖月を設けたり、3年に1度くらいの割合で1年を13ヶ月にしたりする役目を担っており、アラブ社会での地位が高かった。このナサアの制度はムハンマドがイスラームの体制を確立すると廃止された。
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