学生・教師生活とは? わかりやすく解説

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学生・教師生活

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 04:12 UTC 版)

国木田独歩」の記事における「学生・教師生活」の解説

1887年学制改革のために山口中学退学すると、父の反対を受けつつも今井勧め上京翌年東京専門学校現在の早稲田大学)英語普通科入学した吉田松陰明治維新に強い興味持ち学生運動にも加わる。徳富蘇峰知り合いになり大い影響を受けると、その後一転して文学の道を志したこの年処女作「アンビシヨン(野望論)」を『女学雑誌』に発表したほか、『青年思海』などの雑誌文章寄稿するうになる。さらにこの頃から教会に通うようになり、日本基督教会指導者植村正久崇拝する1889年7月10日、「哲夫」と改名1890年9月には英語政治科へと転科した。ワーズワースツルゲーネフカーライルなどを好んだ1891年1月4日植村正久より洗礼受けたこの年学校改革校長鳩山和夫への不信のために同盟休校行ない、間も無く退学した同年麻郷村(現・山口県熊毛郡田布施町)の家族移り住んでいた吉見家に身を寄せ釣り野山散策をしてしばらく過ごす。月琴という弦楽器が上手で、月夜の晩によく奏でていたという。近所麻郷小学校で英語の教鞭を執ることもあった。吉田松陰門弟で、狷介老人として知られる富永有隣訪ね刺激受けて廃校となった小学校校舎借りて波野英学塾開設。弟の収二や近隣の子供を集めて英語や作文などを熱心に教えた。後に富永有隣モデルとした「富岡先生」を著している。 8月田布施町麻里府村に仮住し石崎家に家庭教師として出入りするうち、石崎トミ恋仲となった翌年トミ求婚するが、トミ両親反対されて思い遂げられず、後、失意のうちに弟と共に上京した独歩余りにも熱狂的なクリスチャンだったことが原因とされるその後酒中日記」や「帰去来」など田布施舞台にした作品多数発表している。 1892年2月から1894年2年柳井居住1893年2月3日没後出版されることになる日記『欺かざるの記』を書き始める。同年徳富蘇峰就職先斡旋依頼蘇峰知人ジャーナリスト矢野龍渓から紹介された、大分県佐伯市鶴谷学館に英語と数学教師として赴任し1893年10月)、熱心に教育を行う。だが、クリスチャンである独歩を嫌う生徒教師多く、翌1894年7月末に退職する佐伯滞在初期に、独歩同行して鶴谷学館学んだ弟・収二とともに下宿したのは、館長坂本永年居宅であった

※この「学生・教師生活」の解説は、「国木田独歩」の解説の一部です。
「学生・教師生活」を含む「国木田独歩」の記事については、「国木田独歩」の概要を参照ください。

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