学生・教師生活
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1887年、学制改革のために山口中学を退学すると、父の反対を受けつつも今井の勧めで上京。翌年に東京専門学校(現在の早稲田大学)英語普通科に入学した。吉田松陰や明治維新に強い興味を持ち、学生運動にも加わる。徳富蘇峰と知り合いになり大いに影響を受けると、その後一転して文学の道を志した。この年に処女作「アンビシヨン(野望論)」を『女学雑誌』に発表したほか、『青年思海』などの雑誌に文章を寄稿するようになる。さらにこの頃から教会に通うようになり、日本基督教会の指導者・植村正久を崇拝する。1889年7月10日、「哲夫」と改名。1890年9月には英語政治科へと転科した。ワーズワースやツルゲーネフ、カーライルなどを好んだ。1891年1月4日に植村正久より洗礼を受けた。この年、学校改革と校長・鳩山和夫への不信のために同盟休校を行ない、間も無く退学した。 同年、麻郷村(現・山口県熊毛郡田布施町)の家族が移り住んでいた吉見家に身を寄せ、釣りや野山の散策をしてしばらく過ごす。月琴という弦楽器が上手で、月夜の晩によく奏でていたという。近所の麻郷小学校で英語の教鞭を執ることもあった。吉田松陰の門弟で、狷介な老人として知られる富永有隣を訪ね刺激を受けて、廃校となった小学校の校舎を借りて波野英学塾を開設。弟の収二や近隣の子供を集めて英語や作文などを熱心に教えた。後に富永有隣をモデルとした「富岡先生」を著している。 8月に田布施町麻里府村に仮住し、石崎家に家庭教師として出入りするうち、石崎トミと恋仲となった。翌年トミに求婚するが、トミの両親に反対されて思いを遂げられず、後、失意のうちに弟と共に上京した。独歩が余りにも熱狂的なクリスチャンだったことが原因とされる。その後「酒中日記」や「帰去来」など田布施を舞台にした作品を多数発表している。 1892年2月から1894年の2年間柳井に居住。1893年2月3日、没後に出版されることになる日記『欺かざるの記』を書き始める。同年、徳富蘇峰に就職先の斡旋を依頼。蘇峰の知人でジャーナリストの矢野龍渓から紹介された、大分県佐伯市の鶴谷学館に英語と数学の教師として赴任し(1893年10月)、熱心に教育を行う。だが、クリスチャンである独歩を嫌う生徒や教師も多く、翌1894年7月末に退職する。佐伯滞在の初期に、独歩に同行して鶴谷学館に学んだ弟・収二とともに下宿したのは、館長・坂本永年の居宅であった。
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