学校制度の歴史
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「バート・エントバッハ」の記事における「学校制度の歴史」の解説
1526年にホムベルク (エフツェ)で開催されたホムベルク教会会議では、ヘッセン方伯領の宗教改革とともに、村の学校の設立も決議された。ヘッセン方伯フィリップ1世は、1537年にすべての村の子供がキリスト教の教義を学ぶように定めた。これに伴って、1574年から共同での堅信礼が義務づけられ、その際に定められた授業を受けることとなった。同じ年に礼拝の祈禱や規則を記した書物『Hessische Agende』(ヘッシシェ・アゲンデ)が出版された。1634年から一般的な授業が行われるようになった。1627年または1629年に定められた教会や学校での教育義務は、領主の命令遵守を強く意識づけるためのものであった(宗教的な学校管理は1918年11月27日に廃止されるまで続いた)。牧師のいる村の授業は、牧師の候補者によって行われた。候補者は、牧師にふさわしい人物であることを、授業で証明する必要があった。ラテン語教育も当時既に行われていた。たとえば、1532年にはアルベルト・フォン・デルンバッハが、1563年にはハルテンロート出身のヨハネスがマールブルク大学に進学している。 ハルテンロートには、1623年に全教区の教師としてヨハネス・シュトラウス(牧師候補者)がいたことが証明されている。1639年にはラインハルト・パウルがこれを引き継いだ。また、通学路が、特に冬期には、遠くて危険であるため、ボッテンホルンとヴォーンメルスハウゼンに別の教師が駐在することとなった。ボッテンホルンにはヤーコプ・パウルが、ヴォンメルスハウゼンにはローレンツ・ホプマンが赴任した。ここでの授業は1665年から1720年まで行われた。18世紀初めからはギュンテロートとエントバッハにも教師がいた。デルンバッハとヒュルスホーフの子供たちはヴォンメルスハウゼンに通学した。1822年から1844年まではデルンバッハにも教師がいたが、その後は1878年に学校が建設されるまではヴォンメルスハウゼンで授業を受けた。何十年にもわたって一緒に授業を受けていたため、ヒュルスホーフ、デルンバッハ、ヴォンメルスハウゼンの3つの地区ではほぼ同じ方言が使われている。 1733年7月28日、ヘッセンの基礎教育の就学年数が8年と定められた。当時、学校の校舎はなかった。授業は教師の家や、あるいは他の家の持ち回りで行われていた。18世紀初め、自治体の学校建設に関する指示が公布された。しかし、この命令が完遂されるのは何年も後であった。 1867年にヒンターラント地方(旧ビーデンコプフ郡)がプロイセンに併合された後、初等教育が特に奨励された。1868年には教育に体育が採り入れられた。ハルテンロートとヴォンメルスハウゼンには、実科学校が創設された。ここでは14歳から17歳の男性が学んだ。1899年にギュンテロートがこれに続いた。また、ボッテンホルンにも同様の学校が設立された。教師は夕方に授業を行った。夏の授業は頻繁に中止された。戸外で働くレンガ積みの徒弟は、建設工事が行われない冬季にだけ授業に出席した。1934年4月1日、郡は村の実科学校を、ビーデンコプフの郡立職業学校に統合した。 1924年/26年の学期からジュターリーン書体が導入されたが、1941年に現在の正書体に再び変更された。1945年3月28日のアメリカ軍入城により、同年9月30日まで授業は中断された。1945年10月1日 8:00の教会の鐘の音とともに授業は再開された。
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