始動:ジョン&ヨーコ
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「プラスティック・オノ・バンド」の記事における「始動:ジョン&ヨーコ」の解説
1969年1月の「ゲット・バック・セッション」を終えたビートルズの各メンバーは個別に活動を行っていた。レノンは3月20日、ジブラルタルでオノと結婚すると、3月26日から31日にかけて新婚旅行先のオランダ・アムステルダムで「平和のためのベッド・イン」を行うなど、二人の動向を大々的に報道するマスコミを利用して、「平和活動パフォーマンス」を行っていった。 5月12日、レノンとオノはEMIスタジオで、3月にジョージ・ハリソンがビリー・プレストンと行ったジャム・セッションの音源のミキシング作業に参加し、ハンドクラップ音をオーバーダビングした。この曲には「Jam Peace」というタイトルが付けられ、アーティスト名は「プラスティック・オノ・バンド」とクレジットされた。これがバンド名の最初の公式使用であった。 5月26日からレノンとオノは カナダのモントリオールで2回目の「ベッド・イン」を行い、6月1日には様々な著名人をホテルに招いて「平和を我等に」のレコーディングを行った。さらに2人で「ヨーコの心」のレコーディングも行った。この2曲は「プラスティック・オノ・バンド」名義初のシングルとしてイギリスでは7月4日にリリースされ、シングル・チャートで2位を獲得、アメリカでも7日にリリースされ、ビルボードで14位まで上昇した。 8月にアルバム『アビイ・ロード』のレコーディングが終了すると、レノンとオノはエリック・クラプトンらとともに、9月13日にカナダのトロントで開催された「ロックン・ロール・リバイバル・コンサート」に「プラスティック・オノ・バンド」として初めてのライヴ出演をした。9月末から10月はじめにかけて、コンサートで新曲として演奏した「コールド・ターキー」と「京子ちゃん心配しないで」をリンゴ・スターやクラプトンらと録音し、10月24日にセカンド・シングルとしてリリースした。「コールド・ターキー」はBBCなどで放送禁止曲に指定されてしまったが、イギリスでは14位、アメリカでも30位を記録した。 11月26日、レノンは1967年のセッションで録音されていた「ユー・ノウ・マイ・ネーム」と『ザ・ビートルズ (ホワイト・アルバム)』のレコーディング・セッションで録音されアウトテイクとなっていた「ホワッツ・ザ・ニュー・メリー・ジェーン」を「プラスティック・オノ・バンド」のサード・シングルとするために編集作業を行った。12月5日にリリースすることがアップルから公式に告知されたが、直前になって中止となった。 レノンは12月15日にロンドンで行われるユニセフ主催の『ピース・フォー・クリスマス』コンサートに出演するため、9月のトロントでのメンバーに招集をかけた。すると、デラニー&ボニーのツアーに同行していたクラプトンがハリスンらツアー・メンバーを引き連れて参加した。この模様は後にアルバム『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』に収められ、メンバーは「プラスティック・オノ・スーパー・グループ」と名付けられた。また同時にニューヨークのタイムズスクエアなど世界11都市で一斉に「WAR IS OVER! IF YOU WANT IT Happy Christmas From John & Yoko 」とクリスマス・メッセージが書かれた看板を設置するとともに、ポスターを貼り出したり新聞広告を出したりなどの平和キャンペーンを行った。レノンは看板の費用を尋ねられたとき、「私は知らないが、それは誰かの人生よりも安い」と答えた。 1970年1月27日、「インスタント・カーマ」を作曲からレコーディングまで丸1日で仕上げ、オノの「誰が風を見た」とともに「プラスティック・オノ・バンド」のサード・シングルとして僅か10日後の2月6日にリリースした。フィル・スペクターがプロデュースしたこの曲はイギリスで5位、アメリカでも3位を獲得する大ヒットとなった。 9月26日~10月9日にかけて、レノンはスペクターを迎えてアルバム『ジョンの魂』のレコーディングを行うと、引き続き10月10日~11月6日にかけてヨーコのアルバム『ヨーコの心』のレコーディングを行った。12月11日に「ジョン・レノン/プラスティック・オノ・バンド」「ヨーコ・オノ/プラスティック・オノ・バンド」の名義で2枚同時にリリースした。 1971年1月21日、イギリスの労働運動家との対談で触発を受けたレノンは、より強く直接的なメッセージソングを作ろうと考え、「パワー・トゥ・ザ・ピープル」を作曲すると、翌日すぐにレコーディングを行った。3月12日にイギリスでオノの「オープン・ユア・ボックス」とともに「ジョン・レノン/プラスティック・オノ・バンド」「ヨーコ・オノ/プラスティック・オノ・バンド」の名義でリリースした。 5月22日、わいせつ雑誌の出版にあたるとして前年に訴追されたイギリスのアンダーグラウンド雑誌『オズ』の支援を依頼されていたレノンは「ゴッド・セイヴ・オズ」と「ドゥ・ジ・オズ」の2曲をレコーディングした。しかし、契約上の理由でそのままリリースすることは出来なかったので、6月16日にマル・エヴァンズが連れてきたビル・エリオットと、オノのボーカルをオーバーダビングした。その際、アメリカでは『オズ』の認知度が低かったため、レノンは題名と歌詞が理解されないと考え直し、「ゴッド・セイヴ・オズ」から「ゴッド・セイヴ・アス」に変更した。7月にリリースする際には「(ビル・エリオット・アンド・)エラスティック・オズ・バンド」名義で行われた。 一方6月6日にはニューヨーク・フィルモア・イーストでのフランク・ザッパ&マザーズ・インベンションのライヴにレノンとオノがゲスト出演し、この模様も後にアルバム『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』に収められた。 6月23日から7月5日の間、レノンはアルバム『イマジン』のレコーディングを行うと、ほぼ同時期にオノもアルバム『フライ』のレコーディングを行った。
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