奴隷たちの解放
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 02:10 UTC 版)
「ウィリアム・ウィルバーフォース」の記事における「奴隷たちの解放」の解説
ウィルバーフォースは、1807年以降も活動を続け、奴隷制度に対する彼の関心は、西インド諸島における奴隷たちの状況の改善を目指すアフリカン・インスティテューションの設立に繋がった。彼はまた、西アフリカにキリスト教を広めるシエラレオネ・プロジェクトにも貢献した。ウィルバーフォースの議会の唱道者としての立場は広く認識され、その頃までに義理の兄弟であるヘンリー・ソーントンやエドワード・エリオットとともに属するグループの第一人者としての立場にあった。 1820年までに病気やそれに伴う公的活動の制限を経て、ウィルバーフォースはなお、全ての奴隷の最終的な解放を目指した活動を続けた。1821年にはトーマス・ファウエル・バクストンと庶民院での活動のリーダーシップを継承するように依頼した。ウィルバーフォースは、1823年初頭に「西インド諸島の黒人奴隷のための、英帝国住人の宗教・正義・人道へのアピール」を公表した。その中でウィルバーフォースは、奴隷たちの道徳的・精神的状況は、奴隷制から生じているのであり、全面的な解放が、道徳的・倫理的に正当化され、神の前の国家的義務である、と主張した。 1823年には、奴隷制緩和・段階的廃止協会が設立された(後の反奴隷制協会)。5月15日には、バクストンは奴隷制に反対する議会の決議を提案した。討論の中でウィルバーフォースは積極的な役割を担った。討論は3月16日、6月11日に行われ、その中でウィルバーフォースは、庶民院での最後のスピーチを行った。 1824年、ウィルバーフォースは重篤な病気にかかり、翌年早くに議員を辞職した。彼は1826年にロンドンの北にあるミル・ヒルの小さな土地に移った。これはいくらか彼の健康状態の改善に繋がった。辞職後も、彼はその生涯を費やした奴隷制反対の主張に情熱的な信念を持ち続け、多くの仲間達との活発なやり取りを続け、その中の多くの者を訪ねた。 1833年までに彼の健康状態は低下し、インフルエンザの重い症状に見舞われてからは、完全に快癒することはなかった。1833年7月26日、彼は奴隷制廃止法案がようやく庶民院の第3読会を通過したことを聞いて大変喜んだ。その翌日、彼はさらに衰弱し、7月29日早朝死亡した。1か月後、グレイ伯の政権下で議会は英帝国にいる全ての奴隷に自由を与える奴隷制廃止法を成立させた。 ウィリアム・ウィルバーフォースは1833年8月3日、ウェストミンスター大修道院に埋葬された。葬儀には、一般の多くの参列者に加え、議会の両院のメンバーの多数が出席した。棺は大法官とグロスター公らが担いだ。 イギリスの偉大な議員の1人を記念する像がウェストミンスター大修道院に1840年に、記念碑がハルに1834年にそれぞれ建てられた。
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