奇跡的な業績回復
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/18 06:32 UTC 版)
「コンチネンタル航空」の記事における「奇跡的な業績回復」の解説
このような状況の中、コンチネンタル航空の再建のために招聘されたのが、かつてピードモント航空にいたゴードン・ベスーンである。 1994年2月にベスーンが社長兼COO(最高執行責任者)に着任して4ヶ月後、ユナイテッド航空からベスーンの引き抜きの話が持ち上がる。それを知ったコンチネンタル航空は引き抜き阻止のため大幅な昇給を提示したほか、一部従業員の懇願によりベスーンは引き抜きを拒否し、コンチネンタル航空に残った。ベスーンは経営再建に乗り出すが、当時のCEO(最高経営責任者)が経営権を持っていたことと、改革を行う気力がなかったため、上記の引き抜き阻止交渉の際に権限付与を要求。これにより運航スケジュールとマーケティング、運賃設定に関する権限をもらうことができた。しかしそれでも社内環境が悪かったため、なかなか改革は進まなかった。 同年10月下旬、取締役会によりCEOの解任が決定。しかしすぐに解任したら市場に悪影響が出るため、CEOに6ヶ月の休暇を取らせてその間に後任を決めるとの結論に至り、その間CEO代理にベスーンを指名した。しかしCEOの反対もあって後日再度取締役会を開くことになった。その間、ベスーンは下記のような再建計画を作成し、取締役会までに間に合わせた。取締役会が「CEOを置かない」との方針を打ち出したためごたついたものの、ベスーンの説得により取締役会はCEOにベスーンを指名。同年12月に社長兼CEOに着任したベスーンは、次々と改革を断行していった。 ベスーンが策定した再建計画は「Go-Forward plan(前進計画)」と称し、以下のような4つの方針を決めていた。 Fly To Win…市場の要求に応えた商品を作る Fund The Future…コストをコントロールすることで利益を計上する Make Reliability a Reality…商品の信頼性を高める Working Together…従業員を大切に扱い、安心して仕事が出来る環境を作る ベスーンや、再建に関わった鶴田国昭は、これは「経営再建の秘策」などというものではなく、誰もが当然のことと考えることを実行しただけであると述べている。その詳細は以下の通り。 ファーストクラス及びマイレージサービス制度の復元 旅行代理店へ支払う手数料のカットの廃止 保有機の短期間での新塗装への塗り替え。 月1回、従業員による役員室見学を実施。 週1回のカジュアルデーの実施。 マニュアルの撤廃と、ガイドラインの策定。 従業員と役員との対話集会の実施 財務システムの改善 コンチネンタル航空には当時業界最大の財務システムが存在していたが、それ自体杜撰なものであったため、1994年の投資額は4億ドルほどあったにもかかわらず、その行方がわからなくなっていたという。財務担当のグレッグ・ブレネマンは「何かが変わらない限り、1995年1月に資金が枯渇する」とベスーンに伝えたという。そのため、以下の改善策を実施した。 GEキャピタルを始めとした大口債権者に更なる支援と返済期限の延長を要請。 座席が過剰なうえボーイング機材と異なる整備が必要でリース料が高いエアバスA300のリース契約の終了のため、コンチネンタル航空が新たなリース先を探して操縦や整備の支援も行い、リース会社とのトラブルを回避して円満に契約終了をさせる。 財務システムを正確な数字が出せて信頼性の高いものへの交換。 ボーイングに対し航空機発注のキャンセルと手付金の返還を要請し、手付金の半分の2900万ドルの返却に合意。 CALightやサウスウエスト航空との価格競争からの撤退。 ロサンゼルスの整備施設および上記のA300の部品を置いていたグリーンズボロ空港の閉鎖。 これらの改善策により、当初は撤退を考えていた路線の収益性が極めて高いことが判明するなど、経営方針の策定に貢献することとなった。 定時到着ボーナス 1995年1月に定時到着ボーナス制度の導入を発表した。これは、アメリカ運輸省が公表する定時到着率において、5位以内に入った場合は、全社員に65ドルのボーナスを支給するというものであった。65ドルという金額の根拠は、定時に到着できなかった場合の追加出費が500万ドルに達しており、その半分の250万ドルを社員数で割った場合の金額が、1人当たり65ドルであったからという。これによって、定時到着率の向上により追加出費が減少すれば、その分だけコストを抑えられると判断したものである。 制度導入後、1994年1月に61%だった定時到着率は、1995年1月には71%、順位にして7位に向上し、1995年2月には4位となった。その後、1996年からは、3位以内に入った場合に変更すると同時に、1位になった場合は100ドルのボーナスを支給する内容に改めた。さらに、1997年からは、定時到着率が80%以上となった場合は、順位に関係なく65ドルのボーナスが支給されることになった。 これにより、商品の信頼性を高めるだけでなく、経営陣に対する従業員の信頼も向上することになった。 なお、1995年7月には従業員の給与水準も元の水準に戻されている。 これらの施策により、コンチネンタル航空の業績は次第に回復してゆくことになった。1995年12月には、10年ぶりに2億2400万ドルの利益を計上したが、これは会社創立以来最高額の利益であったという。株価も1995年1月時点では6ドル50セントであったものが、同年12月には47ドル50セントとなった。1996年にはアメリカの航空雑誌「Air Transport World」が主催する賞である「Airline of the Year」を受賞。1997年には6億4千万ドルの利益を計上した。 再建が軌道に乗った1996年には、騒音規制に対応する方策として、3年間で保有機材の6割を新機材に置き換え、1999年には同社の航空機の平均使用年数は7.4年となった。この結果、アメリカ同時多発テロ事件の発生後の燃料費高騰にも、損失を少なく抑えることができたという。
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