太祖の死についての記載・伝承
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「千載不決の議」の記事における「太祖の死についての記載・伝承」の解説
太祖の死因について、『宋史』(元代に編まれた正史)では言及されておらず、「太祖紀」ではただ一行、崩御の事実が記されているだけである。私撰の史書・筆記(同時代または少し後の人物の手になる)は一人一様の記述を見せるが、その多くが晦渋難解である。 巷間ではさまざまな伝説が生まれたが、僧文瑩の『湘山野録』が伝える「斧声燭影」は、最も広く流布した奇妙な説である。 雪の夜に太祖が晋王を呼び、側近を遠ざけ、二人して万歳殿で飲み合った。夜中近く、揺れる蝋燭の影の下で退避しようとする晋王の姿が格子窓に移るのを側近が認め、そして斧で雪をたたく声や、太祖の「好做、好做」(「よくやってくれよ」というほどの意味)と叫ぶ声も聞こえた。その後、太祖のいびきが聞こえるだけとなり、やがて夜明け近くになって晋王が出て来て、太祖の崩御を皆に告げたという。 荒唐無稽といえばそれまでだが、太祖の死の現場に唯一人太宗がいたという点で、太祖の死因について隠蔽しようとしながら、ある程度真実を伝えているともいえる。 宮崎市定など一部の研究者からは、生前の太祖が陳橋の変の時に見られるように非常な大酒飲みであったとする記録などから、脳溢血などの疾患による急死だったのではないかと指摘する声もある。脳溢血により急死したとすれば、それを示す状況としてはむしろリアリティを感じさせる。 『資治通鑑』の編纂でも有名な政治家司馬光はその『涑水紀聞』でこう伝える。 太祖は夜半過ぎの四更ごろに崩御し、その妻の宋皇后は宦官の王継恩を遣わし、秦王趙徳芳を参入させ皇位を継承させようとした。ところが王継恩は何を思ったか晋王の邸に行き、ためらう晋王を追い立てて参内させた。わが子(実際は継子)を待っていた皇后は、義弟の晋王の姿を見るなり仰天し、号泣して「吾等母子の命はひとえに貴方お一人の手にかかっている」と言ったところ、晋王も泣いては「共に富貴を保とう。憂慮無きよう」と慰め、太祖の棺の前において即位した。 太宗の子孫が皇位を占める時代で、司馬光は太宗の行為を努めて弁護しているが、それでも非常に疑わしいことを宋皇后の言葉は伝えている。実際、後日宋皇后が亡くなった時、先帝の皇后という身位に相応しい葬儀は行われず、『宋史』「太宗紀」の詰る事四箇条の一つとなっている。 宋の皇位は太宗以後、北宋の滅亡まで太宗の子孫が継いだ。靖康の変の後、高宗が建康(現在の南京)に入って南宋を建てたが、金兵によって皇統に近い皇族は高宗を除いて一人残らず北方へ連れ去られていた。高宗はただ一人の男子の趙旉を幼くして喪い、そのまま他に男子を得なかったため、太祖の子孫である孝宗を皇嗣とした。これに関しては次の伝説がある。 ある夜、高宗(皇后呉氏ともいう)の夢枕に太祖が立ち、「斧声燭影」当夜の万歳殿の情景をまざまざと見せ、太宗の子孫の絶えることを天意に帰した。目が覚めた高宗は先祖の罪の贖いを悟り、命じて太祖の裔である子供のうちの聡明方正な者を求め、その中から孝宗を選んで皇嗣としたという。 夢告げの真偽はともかく、孝宗以後は南宋滅亡にいたるまで皇統が太祖の裔であり続けた(ただし孝宗の系統は寧宗で断絶している)ことは史実である。
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