太祖〜太宗 (1392〜1418年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 14:40 UTC 版)
「日本統治時代の朝鮮」の記事における「太祖〜太宗 (1392〜1418年)」の解説
李氏朝鮮による調査は徴税賦役を目的としていたが、男性の虚偽申告だけでなく身分や収穫率による軍役とは無関係な一部の女子、賎・奴などの疎外層を申告から除外したり隠す行為に対しても戸主(申告者)と地方官に罰が与えられた。「隣保制度」により10戸あるいは34戸を1隣保として、その長が報告する義務を課すなどしたが、それでも3年に一度の戸籍整備はなかなか進まなかった。より細かい5戸単位で報告させる「五家統制」や、戸別の構成を貼り出させる「號牌制」など統制を強める策が講じられたが賦役を逃れようとする人民の抵抗は激しく不正も横行した。 記録によれば太宗4年 (1395年)の戸数は153,403戸とされ、人口は322,746人だが、これは京五部が欠落している上、かつ成人男子のみの可能性あり。 よって前述の三国時代の年平均人口増加率と実数に近いとされる1906年人口から1392年推定人口は991万人。
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