天覧劇の実現
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/22 15:36 UTC 版)
反対意見を考慮して秘密裏に事は進み、井上邸に奈良東大寺の茶室八窓庵が移築され、その披露目に天皇を招待し、余興として歌舞伎を上演することに決した。井上邸では、新たに12畳の座敷に8畳2間、6畳の日本間から成る新館を増築した。4月2日、井上から團十郎に打診があり、團十郎は菊五郎、左團次、当時の有力興行師である十二代目守田勘彌らと協議して、末松を舞台監督とし、あと、各演目や出演者を決めた。 23日に会場に大道具を搬入。24日には新富座で総ざらえ(リハーサル)が行われた。「いよいよ明日は天覧となったその前の日から、もう飯も咽喉へは通らない。夜は寝られない。」と流石の團十郎もかなりのプレッシャーを感じていたと後年証言している。 26日午後2時10分、明治天皇のもとで『勧進帳』・『高時天狗舞』・『操三番叟』・『漁師の月見』・『元禄踊』、アンコールに『山姥』と『夜討曽我狩場曙』が上演された。最初の出し物『勧進帳』は團十郎の弁慶に、左團次の富樫、四代目中村福助(のち五代目中村歌右衛門)の義経であったが、團十郎の証言では、「……(天皇が)君が代の奏楽につれて設けの玉座に出御あそばした。奏楽の止むを合図に緞帳を巻き上げる。面張に出たのが高橋(左團次)の富樫だ。……いつもの左團次とまるで台詞の調子が違っていたから、揚幕から覗いてみると左團次がうつむいてブルブルふるえていました。」とあり、福助も全身が震え、頭が上げられず、團十郎自身も勧進帳を読むときは「実に苦しかった。」と証言するなど、関係者は極度の緊張状態に置かれていた。 その後は、演者たちも慣れ、特に菊五郎が人形振りで演じた「操三番叟」では、あまりの巧さに天皇は本当に糸がついているのかと終始天井を見上げていた。午後6時に休憩。天皇は会食時に「近頃珍しきものを見たり。能よりかは分りやすく、特に高時の舞は面白し。」との感想を述べられ團十郎たちを喜ばせた。午後8時からのアンコールを鑑賞後、午後9時半に終了。午後10時10分、天皇は還御。政府首脳主催の立食の晩餐に招待された関係者たちは、伊藤博文からねぎらいの言葉をかけられたのち帰宅した。團十郎は帰宅後「初めて飯がうまく食べられた。」とその心境を述べている。 翌27日は皇后臨席で『寺子屋』『伊勢三郎』『土蜘』『徳政の花見』『道行初音旅』『元禄踊』、28日は政府高官主催で外国公使を招いて『寺子屋』『伊勢三郎』『徳政の花見』『高時天狗舞』『元禄踊』、29日は皇太后主催で『勧進帳』『靭猿』『仮名手本忠臣蔵から三段目(喧嘩場)・道行・四段目』『静御前吉野落』『六歌仙』という内容であった。
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