天台宗と最澄とは? わかりやすく解説

天台宗と最澄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/14 03:37 UTC 版)

三一権実諍論」の記事における「天台宗と最澄」の解説

天台宗法華円宗天台法華宗などとも呼ばれ、隋の智顗538年 - 597年)を開祖とする大乗仏教宗派である。智顗は『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』の天台三大部著して、『法華経』を根本経典とし、五時八教仏教理解度の5段階合わせて記され経典のうち、法華経到達点とする)の教相判釈経典成立論)を説く最澄ははじめ東大寺具足戒受けたが、比叡山籠もり12年間山林修行を行った。さらにそれまで日本招来され大量仏典書写研究する中で、南都六宗背景にある天台教義真髄を学ぶ必要を感じ始め親交のあった和気氏通じて桓武天皇天台宗学習ならびに経典招来のための唐へ留学僧の派遣願い出た。これを受け、桓武天皇最澄本人が還学僧短期留学の僧)として渡唐するように命じた。こうして延暦24年805年)の遣唐使船で最澄入唐を果たす。予定通り天台山にのぼり、台州龍興寺において道邃天台宗第七祖。生没年不明)より天台教学学び円教天台宗)の菩薩戒受けて翌年806年帰国した帰国後、最澄桓武天皇対し従来六宗加え新たに法華宗独立した宗派として公認されるよう奏請天皇没後には年分度者新し割当申請し南都六宗並んで天台宗の2名(遮那業止観業各1名)を加えることを要請した。これらが朝廷認められ天台宗正式に宗派として確立。これが日本における天台宗はじまりである。最澄はさらに同じく入唐した空海師事して密教への理解を深める一方六所宝塔院(比叡山寺(後の延暦寺)を中心とする)の造立計画立て弘仁5年814年)には九州へ、同8年には東国赴くなど精力的に活動する最澄悲願大乗戒壇の設立であり、大乗戒授けた者を天台宗菩薩僧認め12年比叡山籠って修行させるという構想によって、律宗鑑真688年 - 763年)がもたらした具足戒戒壇院独占する南都仏教既得権益との対立深めていた。

※この「天台宗と最澄」の解説は、「三一権実諍論」の解説の一部です。
「天台宗と最澄」を含む「三一権実諍論」の記事については、「三一権実諍論」の概要を参照ください。

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