天台宗の三諦偈と中道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/09 18:24 UTC 版)
なお、天台宗の三諦偈による中道の解釈はナーガールジュナの原意を得ていないとする議論もある。 中観派においては、中または中道という概念が重要な位置を占めているが、『中論』において中道という語は第24章の第18詩に1回出てくるのみである。 どんな縁起でも、それをわれわれは空と説く。それは仮に設けられたものであって、それはすなわち中道である。 — ナーガールジュナ『中論』第24章第18詩 これをクマーラジーヴァは、「衆因縁生の法、我即ち是れ無なりと説く。亦た是れ仮名(けみょう)と為す。亦た是れ中道の義なり」と訳したが、中国ではこれが後に多少変更されて、 因縁所生の法、我即ち是れ空なりと説く。亦た是れ仮名と為す。亦た是れ中道の義なり — という文句にして一般に伝えられている。この詩句(変更後のもの)は中国の天台宗の祖とされる慧文禅師によって注意された。天台宗では、この詩句は空・仮・中の三諦を示すものとされ、三諦偈と呼ばれるようになった。中村元によれば、三諦偈の趣旨とは、 因縁によって生ぜられたもの(因縁所生法)は空である。これは確かに真理であるが、しかしわれわれは空という特殊な原理を考えてはならない。空というのも仮名であり、空を実体視してはならない。故に空をさらに空じたところの境地に中道が現れる。因縁によって生ぜられた事物を空ずるから非有であり、その空をも空ずるから非空であり、このようにして「非有非空の中道」が成立する。すなわち中道は二重の否定を意味する。 — ということであり、中国以来、ほぼこのように伝統的に解釈されてきたという。 その解釈がナーガールジュナの原意を得ているかどうかについて、中村元は『中論』の原文とチャンドラキールティの註釈などを用いて検討し、結論としては、インドの緒註釈によってこの『中論』第24章第18詩の原意を探るならば、この詩句は縁起・空・仮名・中道という4つの概念が同趣意のものであるということを説いたにほかならず、天台宗や三論宗が後世の中国で説いたように「空をさらに空じた境地に中道が現れる」と考えたのではなかったことが明らかであるとしている。
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