天台宗延福寺とは? わかりやすく解説

天台宗延福寺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 20:53 UTC 版)

瑞巌寺」の記事における「天台宗延福寺」の解説

平安時代延福寺については、南北朝時代室町時代初期成立思われる天台記』が記すだけで、確かなことはわからない。それによれば延福寺天長5年828年淳和天皇勅願寺として慈覚大師円仁開山した天台宗の寺であったという。円仁開いたという話は他に正嘉元年1257年)に書かれた『私聚百因縁集』に記されている。延福寺限らず平安時代まで遡ることが確実視される東北地方古寺には、円仁開山伝えるところが多いが、事実ではないと考えられている。円仁関東出身ではあるが活動舞台中央にあった慈覚開山とされる寺は、慈覚名目上開山立て実際に開いた僧が二世以降下がった勧請開山とも言われる。 『天台記』はこの寺が奥州藤原氏保護を受け、文治2年1186年)に藤原秀衡が死ぬと、嫡子頼平栗原郡寄進したと記す。が、一郡の寄進信じがたいし、嫡子頼平ではなく泰衡、秀衡の没年文治3年である。 また、文治5年1189年)に源頼朝源義経追討した時、延福寺の僧は頼朝のために義経呪詛したという。松島から少し離れた(あるいは松島まで含めた陸奥国府域は、奥州合戦勃発前に奥州藤原氏離反した推測されており、この伝承は荒唐無稽と言えないものがある。 寺にはまた、見仏上人にあてた北条政子頼朝夫人の手紙と、政子寄贈したという仏舎利が、五輪塔の形をした水晶製の容器入れられ伝えられている。見仏円福寺には属さず松島にいた行者である。政子の手紙は自筆ではなく偽作なければ後世写しと見る説が有力である。書簡寄贈史実推定する学者もいるが、伝承を偽とする説も強い。たとえば、容器の形から政子没後制作推定し鎌倉時代仏舎利信仰勧めた真言律宗叡尊影響を見る説がある。 平安時代延福寺現在の瑞巌寺とは別の場所にあり、その位置不明である。1992年平成4年)の瑞巌寺境内発掘調査で、9世紀製塩炉が見つかったことから、その場所が当時寺院ではありえないことがわかった延福寺規模意外に小さかったではないか、とする説もある。

※この「天台宗延福寺」の解説は、「瑞巌寺」の解説の一部です。
「天台宗延福寺」を含む「瑞巌寺」の記事については、「瑞巌寺」の概要を参照ください。

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