大阪・松原市における地元集中の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/07 00:37 UTC 版)
「地元集中」の記事における「大阪・松原市における地元集中の歴史」の解説
地元集中運動が激しく展開された地域のひとつとされる大阪府松原市は、1960年代末まで市内に全日制課程の公立高校が存在せず、その後の公立高校の誘致・新設をめぐる動きも絡んで後の地元集中運動を複雑極まるものにした。 1965年、大阪府教委が、大阪市生野区にあった生野高校の校舎新築を兼ねて、郊外移転の検討を開始。羽曳野市などの近鉄南大阪線沿線で校地を探し始めたことを受け、翌1966年に松原市議会が「府立高校誘致促進特別委員会」を設置し、誘致に動き出した。一方で(松原市を含む当時の通学区)第四学区の高校進学率自体が他学区に比べ6ポイントほど低かった(府内平均は35%)ため、同和地区の住民を中心に「松原市内の中学生の進路保障」を掲げて市民が熱心に誘致運動を展開。これら府民の意見を受けて、当時大阪府議会議員で生野高校OBの中山太郎らも生野高校の同窓会を説得し“生野の名前を残す”条件で、松原市への移転が決定した。 松原市民にとっては“待ちに待った、我が街の高校”の誕生ではあったが、実際には、生徒の伝統校志向の根強さや1973年の学区制変更(9学区制へ細分化)に伴う偏差値の上昇で、同和地区の家庭では経済面などから学力が伸び悩む傾向があったことから、伝統校・生野への入学が困難な生徒も多く、生野高校の存在は有名無実化した。このため、松原市では1972年「松原進路保障協議会」が設置され、市民3万人超の署名をもとに引き続き府立高の誘致運動が展開され、その成果として1974年、新たに松原高校の新設となった。その後も、1980年に平野高校が、1982年に大塚高校と新設が続いた。 以上の経緯により、松原市内の公立中学校で地元集中運動を推進する教職員には「生野高校は、かつて大阪市内にあった学校が移転してきたもので、地元校ではない」「学区(当時の第七学区における)最難関校で、学力格差の頂点に立つ学校で、地元集中の理念に相容れない」などという理由で批判的に捉える者もいた。このため、松原市内に立地するにもかかわらず、市立の中学校から生野高校への進学は難しくなり、その反発で、松原市民の間では新設校に対するアレルギーや拒否反応を加速させ、伝統校との格差も温存し続ける悪循環を自ら作り出す結果となった。 上記の松原市の例のように、大阪府では地元集中運動や公立高校新設が地方教育行政のみならず同和問題などとも複雑密接に絡むこととなり、その結果、同地域内における同和問題の解決、人権教育への理解すらをも徒に遅らせることとなった。
※この「大阪・松原市における地元集中の歴史」の解説は、「地元集中」の解説の一部です。
「大阪・松原市における地元集中の歴史」を含む「地元集中」の記事については、「地元集中」の概要を参照ください。
- 大阪・松原市における地元集中の歴史のページへのリンク