塢主となる
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308年7月、漢(後の前趙)の皇帝劉淵が平陽に襲来すると、民百姓はみな逃亡した。李矩はかねてより郷里の民から慕われていたので、彼らより推戴されて塢主となり、その集団を率いて東に移り、滎陽に駐屯した。その後、新鄭に移ると、司馬越より汝陰郡太守に任じられた。 311年6月、漢軍の攻勢により洛陽が陥落した(永嘉の乱)。これにより中原は大飢饉に見舞われ、賊の統領侯都らは人を連れ去ってはこれを食していた。太尉荀藩・衛将軍華薈らは洛陽から逃亡中であったが、その配下の多くが侯都らの犠牲となった。李矩は侯都を攻めてこれを滅ぼすと、荀藩・華薈を護衛した。また、司徒傅祗や荀藩・華薈の為に家屋を建て、食糧を供給した。荀藩は密県に行台(臨時政府)を建てると、承制(皇帝に代わって諸侯や守相を任命する事)を行い、李矩を滎陽郡太守に任じた。李矩は離散した兵民を招いて保護したので、遠近問わず多くの者がこれに帰順した。この時期、飢饉・疫病が続いていたが、李矩は難民の撫恤に心を砕いたので、民衆より大いに慕われた。 并州刺史劉琨の任じた河南尹魏浚が荀藩らと今後の方針について軍議を開くと、李矩もまた招かれた。その夜、李矩が出発しようとすると、諸将は「浚(魏浚)は信用できません。夜に行くべきではありません」と諫めたが、李矩は「忠臣の心は一つである。どうしてこれを疑おうか!」と述べた。その陣営に赴くと、荀藩・魏浚らと議論を交わして交流を深め、その後帰還した。 10月、漢の鎮東大将軍石勒が自ら大軍を率いて襲来すると、李矩は老人や弱っている者を山に避難させ、さらに牛馬を解き放つと、伏兵を設けて敵軍を待ち受けた。石勒の兵士は牛馬を見つけると、先を争って捕らえようとしたが、ここで李矩は伏兵を一斉に出撃させ、大呼して襲い掛かってこれを大破した。これにより多くの敵兵を殺傷し、石勒を撤退させた。 荀藩は琅邪王司馬睿(後の東晋元帝)へ李矩の功績を上表すると、李矩は冠軍将軍を加えられ、軺車・赤幢・曲蓋の使用を許可された。また、陽武県侯に封じられ、河東郡・平陽郡太守を兼任した。 この時期、長安を荒らしまわっていた群盗が東へ進出し、向かうところ憚りなく掠奪を行った。李矩のいる新鄭にも賊が到来すると、李矩は配下の将兵を派遣して賊を討ち、捕らえられていた婦女千人余りを取り返した。諸将は人員不足を補うために彼女らを留めようとしたが、李矩は「彼女らはみな国家の臣妾である。どうしてそのような事が出来ようか!」と述べ、彼女らを長安に帰らせてやった。
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塢主となる
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若い頃は身分が低かったが、剛勇をもってその名を馳せた。河内郡太守裴整に仕えると、督将に任じられた。 永嘉4年(310年)7月、漢(前趙)軍の襲来により河内が陥落して裴整が捕らわれると、残された民を率いて自ら塢主となった。また、晋陽で漢と争っていた并州刺史劉琨のもとへ使者を派遣すると、劉琨は承制(皇帝に代わって諸侯や守相を任命する事)を行い、郭黙を後任の河内郡太守に任じ、漢軍を阻むよう命じた。こうして郭黙は懐城に拠ると、戦禍を避けて東へ逃れようとする者から漁船で掠奪を行い、数年で巨万の富を得た。これにより、帰順する流民は甚だ増え、彼は将士をよく慰撫したので、大いに民心を得たという。 ある時、妻の兄である陸嘉が官米数石を盗んで妹に与えていた事が発覚すると、郭黙は法に則って陸嘉を処刑しようとしたので、陸嘉は恐れて漢の征東大将軍石勒のもとへ亡命した。すると、郭黙は自ら妻を射殺し、周囲の者へ私情を挟まない姿勢を示した。 永嘉6年(312年)5月、漢の右将軍劉参が懐城に襲来したが、これを防いだ。 建興元年(313年12月、漢の中山王劉曜は軍を率いて石梁を守る西晋の河南尹魏浚を包囲した。郭黙は兗州刺史劉演と共に軍を派遣して救援に向かったが、劉曜は兵を分けて河北でこれを迎え撃ち、伏兵により郭黙らの軍は撃破され、その騎兵は尽く捕らえられた。魏浚は劉曜に捕まって殺害された。
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