城の施設及び建築物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/17 02:15 UTC 版)
東門 一番使用頻度が多かった門で、城の南東に位置する。別名「左翼門」というが、全羅右水営の名前からわかるように王が南側を望み統治するので、この基準から見た際、東は左側に位置するからである。幅は3.1m、高さは4mで、虹(アーチ?)の基石上に9個の虹石(輪石?)を積んだアーチ式城門で、地面が城門より低く階段が設置されている。内側は横31cm、縦16cmの鉄鱗で補強している。復元された城門楼は正面が3間、側面が2間ある。 西門 山城北東にある門で別名「右翼門」という。クァンナルや松坡ナルに一番近いが、傾斜が急で当時物資を輸送した牛馬車などは、この門から出入りすることは大変だったろうと推測される。門の幅は1.46m、高さは 2.1mある。東門のようにアーチ式で、長方形アーチの基石上に5 枚の虹石(輪石?)を載せている。内側には2枚の木材板門を設置している。復元された門楼は正面3間、側面1間あり、屋根は八作屋根である。仁祖が王世子らとともに清に降伏しに行く際、この門を通ったと言う。 南門 南門は城の西南にある門。南門は正祖3年(1779年)に城郭を改善補修する際、改築して至和門と呼んだ。また南門は4大門中、唯一懸板が残っている。他の門のように門楼とアーチ門に分けられる。南門のアーチ門は高さ4.75m、幅 3.35m、長さ8.60mでアーチ基石上に虹石(輪石?)17個で構成されている。門楼は正面3間、側面3間で、東門より柱の高さは低いが建物の全体高さは少し高い。現在の門楼は1976年に復元したものである。丙子の役で仁祖が初めて南漢山城に入って来る時にもこの門から入城した。 北門 城郭北側海抜365m地点にあり、税穀を城内に輸送する際、この門から出入りしたといい、南門と同じ時期に新築された。この時名前を戦勝門と付けた。現在、門楼を復元中である。扁額はかかっていない。 城郭 城郭は基本的に元城と外城に区分されるが、元城は一つに繋がれた本城であり、外城として東側に蜂巖城と漢峰城、南側に新南城があり、東西2つの高台が構築されている。元城は1624年(仁祖2年)から1626年(同4年)の間に増改築、当時(ママ)築城されて周囲7,545mになる。 元城内部は約67万余坪と測量されている。現在元城は南側と北側一部が破損された状態である。 将台 よく「守禦将台」という名前が広く知られているが、本来将台は戦闘の際、指揮が容易な地点に設置した指揮所のことである。現代と違い、将軍が直接戦場を観察しながら指揮した当時において、将台(指揮所)は城内で一番高く指揮と観測が容易な所に設置した。普通韓国の城で将台は単層形態が主流だが、南漢山城は2層楼閣形態である。このような形態は近隣にある同じ世界遺産の華城でも確認される。南漢山城は広いので全部で5つの将台を設置したが、18世紀以前に皆崩壊した。18世紀後半に西将台、南将台の二台を2層楼閣形態で再建したが、現存するのは西将台だけである。「守禦将台」という名前はこの西将台を指すものである。 甕城 主城郭から外に長く伸びた小さな城郭のことをいう。城壁にくっついた敵軍を横から攻撃したり、南漢山城の場合、突き出た甕城で烽火台の役割も兼ねたものと推測される。
※この「城の施設及び建築物」の解説は、「南漢山城」の解説の一部です。
「城の施設及び建築物」を含む「南漢山城」の記事については、「南漢山城」の概要を参照ください。
- 城の施設及び建築物のページへのリンク