図書館の充実と発展(1951-1967)
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「三重県立図書館」の記事における「図書館の充実と発展(1951-1967)」の解説
設備が整った県立図書館が次に衝突した壁は、図書館法が定める最低基準であった。利用実績こそ好調であったものの、床面積は最低基準より85坪(≒281m2)不足し、41万円の図書費は三重県立津高等学校の図書購入費用(61万円)すら下回る有様で、1951年(昭和26年)12月の県議会で議員から指摘を受けるに至った。これを受けた県は図書館予算の増額を進め、1952年(昭和27年)度に472万円だったものが1954年(昭和29年)度には725万円まで伸びたが、他の都道府県立図書館と比較すると最低水準であることに変わりはなかった。 一方、サービス面では1951年(昭和26年)11月に出納式から開架式に切り替え、1952年(昭和27年)より日本十進分類法3版から6版への移行、蔵書目録の作成、貸出文庫の充実を実行し、1955年(昭和30年)1月19日から移動図書館「ともしび号」の運行を開始し、県内各地に設けた43ステーションを巡回した。ステーションは1965年(昭和40年)には94か所まで増加し、同年度の利用者は45,500人に及んだ。移動図書館は県内各地で読書グループが結成される契機ともなり、1965年(昭和40年)の記録によると113団体5,627人が三重県内で活動を行っていた。県立図書館でも読書グループの利用に応えるため、同じ本を10冊セットにした読書会用のテキストを準備し、1959年(昭和34年)からは読書グループの求めに応じて図書館職員が出張して指導を行うサービスを開始した。更に1960年(昭和35年)11月には県内の読書グループの交歓会が発足し、そこから派生して1963年(昭和38年)の『図書館だより』創刊、1964年(昭和39年)の読書会機関誌『つどい』の創刊へとつながった。 また1958年(昭和33年)3月には移動図書館と連動する配本所を県内7か所に設け、1959年(昭和34年)5月から1年間、ラジオ三重(東海ラジオ放送の前身企業の1社)で県立図書館の新刊案内を放送した。同年は伊勢湾台風が発生した年でもあったため、被災者のために「慰問文庫」を臨時で開設した。 1960年(昭和35年)度の蔵書数は51,866冊、閲覧者数は58,268人で、1965年(昭和40年)度の蔵書数は78,110冊、閲覧者数は76,904人で両年度とも蔵書数は神宮文庫に次ぐ県内第2位、閲覧者数は県内首位であった。しかし、1960年(昭和35年)時点で、三重県立図書館は都道府県立図書館の中で蔵書数が最下位であり、職員数は都道府県立図書館の全国平均の半分の16人しかおらず、依然として全国の最低水準を脱することはできていなかった。また建物が図書館としての構造に不適格かつ老朽化していることも問題視された。
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