呼出し太郎伝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/01 23:28 UTC 版)
1888年、本所南二葉町(現在の墨田区亀沢)の俥屋の長男に生まれた。本名:戸口貞次郎。すぐ隣が大関初代朝汐太郎の家だったこともあり、相撲の盛んな町に育った。その朝汐の口利きで1898年、11歳のとき呼出し親分の勘太郎の弟子となり、朝汐にあやかって「太郎」の名をもらう。入門5年目に小結源氏山頼五郎以下40余名の脱走事件があり、そのとき太郎も一緒に飛び出している。これが苦労の始まりで、いろいろ地方を渡り歩く長い放浪時代もあり、無謀なことも数々やったが、やがて大坂相撲に縁ができ、呼出として再起。 大坂相撲の呼出は満足に太鼓を叩ける者がおらず、太郎はにわかに頭角を現すこととなる。ここで行司の木村金八(後の木村錦太夫、22代木村庄之助)と知り合い意気投合、生涯の交遊が始まる。大坂相撲時代、巡業先で太鼓を質に入れたため、宿でカラの醤油樽を借りて叩いたが、仲間の内誰も気がつかなかったという。その後、昭和時代の幕開けとともに、東京と合併。太郎は大坂の呼出を全員東京に売り込んで男を上げた。親分の下地はそのときからで、太鼓も東京の呼出の誰にも負けなかったという。 停年退職した1960年まで63年間を貫き、「太鼓の名人」「相撲界の名物男」「呼出の親分」として知られた。また両国の自宅を長年相撲記者クラブに解放し世話係を務め(停年後も続けていた)、確固たる地位を築いた。この頃はもう櫓に上がることはなかったが、花相撲のおりの「太鼓の打ち分け」はまさに圧巻、独壇場の名人芸だったという。 1952年1月に行われた巣鴨拘置所、A級戦犯慰問大相撲で「太鼓の打ち分け」を披露し、荒木貞夫、鈴木貞一、畑俊六ら10人の旧日本軍の重鎮、軍閥の連名からなる礼状が届けられた。所属が角界一の大部屋出羽海部屋ということも幸いし、7代出羽海(元横綱常ノ花)、8代春日野(元横綱栃木山)の両取締とは気軽に口の聞ける立場にあった。 1949年5月場所前、太郎が協会で取締に「呼出も番付の隅っこに名前を載っけて欲しい」と請願したことがきっかけで、16人の呼出の名前が初めて世話人とともに番付に掲載されることになった。これは1959年11月場所、太郎が停年退職する直前まで10年間続いた。1969年11月3日、秋の叙勲で勲六等単光旭日章を受章。相撲界では初めて生存者叙勲の光栄に浴した。1970年1月8日には武藏川理事長、春日野審判部長(元横綱栃錦)をはじめ180人が出席し祝賀会が挙行された。席上、高橋義孝横綱審議委員は「醤油樽叩いてもらう勲六等」の句を披露し祝福した。1971年3月3日、83歳で逝去。妻には家と現金7千円(死去当時、企業物価指数は2021年の2分の1程度であった)を遺産として残した。墓所は両国回向院。戒名は「太鼓院技巧日貞居士」。
※この「呼出し太郎伝」の解説は、「呼出」の解説の一部です。
「呼出し太郎伝」を含む「呼出」の記事については、「呼出」の概要を参照ください。
- 呼出し太郎伝のページへのリンク