周辺機器事業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/26 14:27 UTC 版)
「コントロール・データ・コーポレーション」の記事における「周辺機器事業」の解説
1960年代を通して、ノリスは IBM に対抗するには何か重大なものを開発する必要があると感じるようになっていった。そのため、彼は周辺機器企業を買収してラインナップをそろえるという大胆な作戦を開始した。彼らはIBMより10%価格を安く設定し、10%性能の良いものを提供することを試みた。これは常に簡単というわけではなかった。 最初の周辺機器の1つに磁気テープ装置がある。周辺機器部門はこの開発にあたって社内の他部門にコストを分担させようとしたため、ちょっとした議論が発生した。もし原価相当の価格で他部門に機器を供給すれば、周辺機器部門は利益を得る方法がないことになる。代わりに周辺機器部門は、周辺機器が売れた際の利益の一部を還元してもらうことで決着し、以後その方式が定着した。 その後、カードリーダ、カードパンチ、テープドライブ(ストリーマ)、ドラム式プリンターなど、全て自社設計のものが開発されていった。当初、プリンター事業はデトロイト近郊のホーリー・キャブレータが実際の生産を行っていたが、後に合弁会社を設立。さらにホーリーは保有株をCDCに売却し、プリンター部門としてCDCに編入された。 ノリスは IBM が支配するパンチカードに代わる入力手段を模索していた。彼は光学文字認識 (OCR) システムのパイオニアである Rainbow Engineering 社を買収することにした。そのアイデアは、オペレータが決まったフォントのタイプライターで普通に打ち込んだものを OCR で読み込むことでパンチカードを不要にするというものであった。タイプされたページ1枚にはパンチカード1枚より遥かに大量の情報が含まれる(パンチカードは基本的にタイプの1行ぶんの情報しかない)。従って、紙の節約にもなる。しかし、これは思ったよりも困難な転換だった。CDC は初期の OCR システムで重要な役割を演じたが、今日に至るまで OCR が主要なデータ入力手段になったことはない。Rainbow の工場は1976年に操業停止し、CDC もその事業を止めた。 OCR プロジェクトが思ったように進展せず、パンチカードがすぐには無くならないことが明らかになると、CDC はこれにすぐさま対応する必要に迫られた。パンチカード機器は製造し続けていたが、それらは原価が高かった。そこで、より安価で高速な機器を持っている Bridge Engineering 社を買収することになった。その工場では磁気テープ装置も製造するようになった。後に、その工場とプリンターの工場はスピンオフされ、NCRとの合弁会社 Computer Peripherals Inc (CPI) となった。これは開発を共通化することでコストを削減する意味があった。さらに後には ICL もこれに加わっている。さらに1982年、そこからプリンター工場がセントロニクスに売却された。 ノリスは、コンピュータを購入できない中小企業向けに計算サービスを提供するオフィスをあちこちに展開した。この事業はあまり利益を生まなかった。1965年ごろ、何人かの管理職が利益の出ていないオフィスを閉鎖することをノリスに提案した。しかし、ノリスはこのアイデアを気に入っていたため、その提案を受け入れず、代わりに全体的な倹約を指示した。
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